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ある種の激しい意見表明は自己防衛なのかもしれないこと

(※この記事の内容は昨年の10月末からずーっと頭の中にあり、書いて置いておき、時折書き換え書き加えしてきたものです。そのせいか支離滅裂な感じがあります……最近さらに他のことも加えたくなっちゃったけどキリがないしさらに意味不明になりそうなので、このへんで送り出しておきます)

以前、ある、Pから始まる清涼飲料水のCMについて
「こういう親子大嫌い、気持ち悪い、うちはこういう感じじゃなくてよかった」
ってものすごい勢いで噛みついている方をTwitterでお見かけした。(文面はこの通りではない)
 
私はちょっと、驚いてしまった。
それは、そこまで嫌悪感をむき出しにして攻撃するようなことなんだろうか。
なるほど、このCMで提示された親子像は、この方のそれとは合わないのだろう。
でも、誰も「同じようになれ」とは言ってないんですよ?
 
(このCMの評判を今遡ってみていくと、
「すごく好き」と「嫌い、見たくない」が交互に現れるような感じで、
何がしかのリトマス試験紙のようだった。人生哲学とか世界観に関わっている可能性がある)
 
あるモデルが見せられたときに、
ある一定のあり方が「よきもの」として提示されたときに、
けっこうな剣幕で怒りだす人たちがいるよな、と思う。
 
以下、偉そうなことを述べるが、私もそのような一人になることがありえる、という自戒をこめて書く。
 
※「怒る」「怒りを表明する」こと自体が悪だなんて言う気はない。例えば犯罪や社会的不正義、政治家のあれやこれやについて私たちはもっと怒りを表明せねばならない、と私は思う……
 
さて。
一見どうであってもいいことについて、なぜそんな風に怒りや嫌悪感を表明したくなってしまうのだろうか。痛烈な批判を加えたくなってしまうのだろうか。
個人の自由だったり、それぞれの家庭の方針で違っていて問題なさそうな分野で。
どうであろうと、本人に実害(影響)がなさそうに見える場合に。
 
それはもしかしたら、
「自分とは違うあり方が賞賛(or 紹介)されている」=「自分のあり方が否定されている、自分が攻撃されている」
という等式が人の心の中で成立しやすい、ということなのかもしれない。
提示されたモデルに対する激しい拒絶反応は、自己防衛に由来するのかもしれない。
 
最近、オードリーの若林正恭のエッセイ『ナナメの夕暮れ』を読んだ。
私は若林くんがけっこう好きである。出演番組を追っかけて見たりはしないが、なんとなく好感を持っている。エッセイも1冊目から読んでいて、いや~~~私すっごい、あなたにシンパシー感じるよ、若林くん。
で、その『ナナメの夕暮れ』の中で、若林くんが「生きてて全然楽しくない地獄」を脱するために「肯定ノート」を書きはじめた話が出てくる。
まずは、自分がやっていて楽しいことを書きだす。
そして次に、「他人を肯定する文言」を書き込もうとしたが……

最初は、ペンがなかなか進まなかった。
他人を肯定すると、自分を否定することになりそうだったから。 

p. 161『ナナメの夕暮れ』(文庫版)

おお、そうなのかやはり。
自分とは違う他者を肯定することが、自分を否定することにダイレクトにつながる気がする、それは現実にある現象なんだ。
(なお、若林くんはきちんとそのハードルを乗り越えている)
 
他人事みたいに言ってるけど私にだってそういう面があるんだろう。
「〇〇〇はダメだ、間違っている」と感じて批判したいとき、その気持ちがどこから来ているのか。立ち止まって考える必要があるんだろう。
 
もちろん、「何が好きか」と同様に「何が嫌いか」「何が許せないか」もその人のアイデンティティとして重要だし、自分が思ったことや感じたことを言うことは許される世界だ。
私だって「この広告嫌い」「この番組の演出めっちゃ不愉快」とかはある。
「こーゆーのが! 大っっっ嫌い!!!」と叫ぶことには一種の快楽というか解放感があるのは確かだ。
それに、あまりいい子ぶって自分を抑えつけすぎるのもよろしくなさそうだし。
(ちなみに私が嫌悪を感じるのは「軍隊式」のあり方である……詳しくは書かない)
 
 
それはそうなんだけれども。
「こういう生き方(行動、あり方)も素敵ですよね」が示されたときに、
「私はそんなの嫌」とか
「そもそも私には無理、押しつけるな」
……といった反発がSNSであふれかえる様子がしばしば見られる。
そのたびに、本当の多様性はまだ私たちの心には根づいていないのだ、と感じさせられる。
 
例えば、ありふれたお祝いの言葉である「ご結婚おめでとうございます」に対して過剰にナーバスになる人もいる。他者に向けられた「結婚おめでとう」から、「結婚してないあなたはダメな人」という響きを聞き取ってしまうのだろうか。話者にそんな意図はないのに。
 
自分とは違うあり方がたたえられると、自分が否定されたと感じて勝手に傷つき、怒りだす……
自分のあり方が認められていないと感じて、過剰に攻撃的になる……
それは外部の誰か(「みんな」?)の「お墨付き」を求める心の表れではないだろうか。
そして「あるべき姿」は一種類しかない、という前提がそこには隠れているのではないだろうか。
 
もし、多様性の尊重が十分に内面化されていれば。
もし、「みんなそれぞれ違って当たり前」というマインドが個々人に備わっていれば。
「結婚おめでとう!」から「結婚してない私はダメだっていうの!?」なんて発想は出てこないはずなのだ。

(自分も結婚したいのにできないで辛い、みたいなときには聞きたくない言葉だというのは想像できますよ、私にも)
(なお、ここで「選択的夫婦別姓」についての遅々として進まない議論(議論以前?)の話もしたくなってしまうが、それを始めると長くなりすぎる……でもその背景にあるのは、結局こういうことだろうと私には思える)
 
 
「多様性」「多様なあり方」が根づいた社会。
全体主義から逃れられる社会。
それを作るには、人々は以下のことを了解し、折々に確認する必要がある、と思う。
 
「Aがいい・Aは素敵」は「A以外はダメ」という意味ではないということ……
 
カタクリタマコさんの記事を読んで私が考えたのは以上のようなことで、
ときどき振り返って思ってみる。
(↓↓カタクリタマコさんの記事↓↓)

 
私たちがそれぞれの「楽園」を認めあう日が早く来ますように。
認めることはできなくても、穏やかにスルーしたり、態度を保留したりできますように。
互いをこき下ろさないで済む日が、早く来ますように。
 
まず私自身が、「みんな」に認められほめられたい、という思いから守られますように。
そして自分を恥じないと同時に、自分とは違うあり方を「そうなのね」と平熱で受け止められますように。


(↓ちょっとずつ進んでおります↓)


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