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仏教って何? 基礎編ー6

仏(釈尊)は自分が悟った内容をどのように人に伝えたのか?

悟ってから、その内容を初めて人に伝えるまで

 
上記の波の喩のように、ものごとの本当のあり方を知らないが故に(無明)、自分と他者を区別・分離しようとする働き(行)が生じ、その働きの故に、本来は存在しない虚妄の自分という思い込みと、それに敵対する無数の他者という更なる虚妄の思い込みが生じる構図が明らかとなりました。そして、そのような虚妄な思い込みとそれによって生じる他者との軋轢・闘争・愛着・喪失などの様々な苦しみは、その原因となっている虚妄な思い込みが本当の姿でないことに気づき、ものごとの本当のあり方を悟るまでには続くことが分りました。
 釈尊は、このような未だかつて誰も見たことも聞いたことも無いような重大な事実を悟った訳ですが、当初は、誰も経験したことの無いものをどのように人に伝えたらいいか悩みました。リンゴを食べたことの無い人に、リンゴの味を説明することは出来ません。釈尊が悟った内容は、リンゴの味のような単純な話ではなく、あまりに根源的な内容で、経験したことの無い人に説明するのは殆ど不可能なように思われるものでした。
 釈尊はしばらくの間、考え抜いた末に、自分の悟った内容の全てを分かってもらうのは無理だとしても、分かってもらえそうなことから話していく決心をしました。
 そして、ついこの間まで一緒に修行していた5人の仲間達なら、自分の悟ったことを分かってくれるかもしれないと思いつきました。釈尊はそう思い直し、自分が悟りを開いたブッダカヤからおよそ300キロも離れたベナレスの近くのサルナートに向かいました。
 そもそも300キロも離れた所に、かつての修行仲間たちが居るという情報をどうやって釈尊が得たのかは謎です。情報を得た頃にはもう彼らはその場には居ないかもしれません。更に自分が300キロ先のサルナートに到着するのはもっと先になるわけですから、会いに行ったからといって会える保証はどこにもなかったと思われます。
 まあ、いずれにしても今のように携帯もLineも無い時代に、アポも取らずに300キロも離れたところに居る友人達に会いに行くというのは余程の決心が無いと出来ないことだったと思われます。
 伝説では釈尊は自分が悟った内容があまりに深遠で人に伝えるのは不可能だと思って、諦めかけたところに、梵天という天の神々の一人が釈尊に法を説くように懇願して、それに応えて法を説く決心されたということになっています。しかし、この話は本来バラモン教の神である梵天に釈尊に教えを説くようにお願いさせることによって、釈尊の教えの方が、従来のバラモン教より優れているということを示唆する為に作られたお話であると少なくとも筆者は考えております。
 実際の釈尊は、梵天に頼まれたからしょうがなく教えを説くというよう姿勢ではなく、自分が悟った内容をなんとか分かってくれそうな人に伝える為にわざわざ300キロも歩くほどに伝える気満々であったものと思われます。というか、普通の人でも「あっそうか!」と悟った内容は、嬉しくなって直ぐにでも他の人に伝えたくなるのが人情だろうし、それが「悟り」というものを一瞬でも共有した人々が自然に取るであろう行動だと思われます。これは、後々結構重要なポイントになってきますので、気に留めて置いて頂きたいと思います。
 話が脱線しそうになりましたが、本筋に戻すと、まあそうやって釈尊は悟った地であるブッダガヤから300kmも歩いて、ベナレス近郊のサルナートという所にいた、かつての修行仲間5人とめでたく再会するわけです。


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