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Adoさんの「心臓」を見たアラサーファンのメモ書き

はじめに注意事項(言い訳)を書いておきたい。
1.noteは昔アカウントだけ取得して特に何も使ってこなかった。note歴1日目の投稿だと思ってもらいたい。
2.140字を超える、人に読まれる文章をもう何年も自発的に書いてこなかった。よって他人の下手なメモ書きを覗き見るつもりでいてもらいたい。
3.さしたるファクトチェックを行っていない。最低限は確認の上書いているつもりだが、お粗末な記憶に依拠していることも多い。新入社員が配属3日で取った電話メモだという体にしてもらいたい。
4.興奮のあまり書き殴る形になるため、確実に翌日以降後悔することになる。隣のテーブルで酔いすぎた客の奇行を見たことにしてもらいたい。

Adoさんのライブ「心臓」を見るために、国立競技場に行ってきた。そこでいろんな方向から感情が揺さぶられてしまったため、なにか形に残したくてこれを書いている。
こういった話をするとき、話し手がどんな立場?なのかを気にする人は多いと思う。(当の私もそうだが、自分から色眼鏡を掛けにいくようで好きではない)だから先手を打つと、ファン歴は2年で、ライブは「マーズ」ぶり。

ライブは最高を大幅に更新したし、むしろ今後の人生でこの感動を超える経験ができるのか不安になるくらいだった。よって、ここでは何かを批判したり、論評するつもりは全くない。ただ、純粋な感動以上のなにかが心の中に残ったので、自分でこの週末を忘れないようにしたかった。

まずライブそのものの覚え書き。
あくまで主観ベースの、このライブで強く心を打たれた出来事の羅列。時系列にしたつもり。開催概要やセットリストなどの情報は公式または第三者に委ねたい。

1.DJ
最初からライブ本編の話ではないのは構成状具合が悪い気がするが、時系列と言い切ってしまったので、気にしない。余談だが、コンテンツの世界では初志貫徹、ビジネスの世界では朝令暮改が美徳だと思っている。これはコンテンツだと思うので、気にしない。
開場〜開演までの2時間の間のオープニングアクト、言ってしまえば前座だが、これがあまりに豪華だった。TeddyLoid氏である。
ところで、ヒップホップシーンは多少(本当は少)知見はあるが、DJや音楽プロデュース界隈にはとんと疎い。仮に急に話を振られたら、空っぽの引き出しを隅々まで探すと思う。「同郷(隣町、当然何のつながりも接点もない)出身のANARCHY氏が好きで、そのつながりからDJ IZOH氏を知りました」とその後なんの発展性もない話題の袋小路にたどり着いたり、「地元で作られたアニメ『日常』で前山田健一氏を知りました。彼といえば高学歴でも有名ですが、その大学に私は2回落ちまして」と無理やり話題を(それもよくない方向に)シフトして会話が迷宮に至る未来しか見えない。それでも話題がないよりマシだと思えるなら、地元京都に感謝するほかない。
話を戻すと、TeddyLoid氏である。正直、上述のような有様だったので、私はいちAdoさんファンとして「踊」と「唱」の人という認識しか持ち合わせてはいなかった。それにしたって、その2曲のどこからどこまでに関わった人なのかも曖昧な認識で恥ずかしい限りだった。
そんな私も初日のオープニングDJでトリコになるのだから実力は折り紙付きなのだと思う。全ての曲を知っているわけではないので間違っているかもしれないが、選曲については、場の心地よさ以外にもAdoさんのライブ前である必然性みたいなものを感じる選曲だった気がする。1日目の「Princess♂」とか。
これは全くしなくていい余談だが、TeddyLoid氏登場の前にヒゲが素敵なDJが登場するのだが、そもそもTeddyLoid氏の顔を知らない私は「これがTeddyLoid氏か!エモ!」と感動を噛み締めてしまった。彼が去った30分後、本物が登場した瞬間に悟るわけだが、そりゃそんなはずないよな……とあとから出てくる随所にある違和感と脳内で答え合わせをした。なぜ私は黙ってればかかない恥を自らかきにいくのだろうか。というか彼は誰なのか。
話したかったのはそんなことではなく、ライブのホスピタリティ。ふだん私は仕事柄、費用対効果をシビアに見ることが多い。キャスティングや楽曲使用、パフォーマンスにかかるリソースは不案内な私には想像できないが、誰かの善意と奉仕精神で成り立っていることは確かだ。私には効果覿面だったが、AdoさんやTeddyLoid氏はもちろん、その場にいた全ての人にそのリソース以上の価値が生み出されていてほしいと切に思う。

2.フリフラ
今回から導入された新システムで、詳細は公式に委ねたい。
とにかく最初から最後まで圧巻だった。今回、初日はS席、2日目はVIP席だったため、「心臓」を遠近両方の視点で楽しみつくしたつもりでいるが、ことフリフラ演出に関してはS席で経験できてよかったと思っている。ステージに近い「良席」ほど、この恩恵にはあずかれない。この点において座席のヒエラルキーが逆転を起こしている気もしていて、VIP席がS席を楽しませる舞台装置になっているのが痛快だった。このあと別項でも同じ話をするかもしれないが、単純にみれば金額の高い席ほど良いサービスを受けるべき席なのだが、考えてみれば「心臓」のようにそもそもチケットを買いたくても買えない状況があるなら、このくらいの逆転は十分にあって然るべきなのかもしれない。
そういえば初日はA席の空席、それもステージがギリ見られるかどうかの角度のブロックに配置されたフリフラが気になった。人が持たないと等間隔に固定され、浮いてしまうためだ。翌日にはフリフラ自体が撤去されていたので、こういった情緒的な理由なのだとしたら、1日での修正はとても仕事が早いなと思う。いやいや座席から外すだけではと思うかもしれないが、私の妄想によると、誰かの立案や、システム面や運用面の確認、責任者の承認、現場オペレーションの修正と実行、と手順は多い。私の仕事観が古いだけかもしれないが。
この点においても、そして実は他の点においてもそうなのだが、2日目はより「見え方」に対する配慮があったように思う。これはそのうち2日目をBlu-ray・DVD販売するという証左であってほしいと切に思う。

3.選曲
シブい。この言葉は、褒める言葉を尽くすことを放棄したり、なにかお茶を濁すときに使うイメージがあり、大好きなAdoさんにあまり使いたくないのだが、とにかくめちゃくちゃシブかったのである。もちろん、極めてポジティブにシブい。
ところが「渋い」と辞書を引くと「華やかでなく落ち着いた趣がある。地味で深い味わいがある」(スーパー大辞林)とある。どうにもイメージと合わない。ライブはド派手に華やかだったはずだ。私にとって「心臓」のどのあたりがシブかったのか。
思い当たるのは選曲理由。今回はMCでの丁寧な説明があったように、極めて「心臓」のライブコンセプトに肉薄した選曲となっている。もちろん、楽曲そのものの選択肢が増えたことも一因だと思うのだが、今までのライブでもここまで明確な意図を掲示したセットリストはないのではないか。ライブ全体が「心臓」を核にした一つの生き物のようにも思える。年齢で物事を見るのはつまらない大人の物差しでしかないが、弱冠21歳にして、こんなに視点の高いパフォーマンスができるのかと驚いた。私の計算では再来年くらいに宇宙規模でライブを考えていても不思議ではない。1曲1曲の派手さとのギャップが「落ち着いた趣」なのかもしれない。
コンセプトを意識してもう一度各曲に視点を戻すと、それぞれの歌詞がまた一層味わい深くなって心地いい。あえて例えるなら、回らないお寿司をおまかせで楽しんだあと、最後に大将から「実は今日の魚、全部石川県産なんです」と言われたようなもの。どうりでブリにふくよかな旨みがあったんだ!冬の日本海に感謝!などといった発見がほほえましい。そもそも第一印象としてそのお寿司があまりに美味しかったので「だったら先に言ってくれよ!」とは到底ならないし、また食べたい、味わいたいと猛烈に思う。この例えで言うなら、私は2日連続で同じ大将にお寿司を握ってもらっているわけだが。
楽曲の歌詞をここに抜き書きしてもいいのか、正しい間違いが不安定で私には判断ができなかったので、ぼやかした言い方で一例を挙げたい。「クラクラ」がタイアップアニメのイメージから一転してにわかに自分にも関係のある現実的な心の話にみえてくるようになった。あの曲もこの曲も、全てが決まってたように思いこんでいた見え方や捉え方が拡がった。知らないことばっかで恥ずかしい限りなのだが、悩んで学んで繰り返し、もう十分愛してると思っていた曲たちをもっと好きになってしまった。100%はわからないものだ。
冴えないジョークはさておき、一曲一曲の華やかさの対比として、ライブ全体の精緻さが「シブい」のだと自分をある程度納得させることができた。このシブさが多くの人に伝わってAdoさんの魅力が全宇宙で増幅してほしいと切に願う。

4.ドローン
これまでの人生で生のドローン演出に触れてこなかったので、ドローン演出有識者としての意見など到底持ち合わせていない。だから私の感想が今回特有のものなのか、ドローンのポテンシャルなのか、判断はつかない。つかないが、そんなことはどうでもよくて、私の心臓を加速するこの感動だけが本物だと思う。夜空のどデカいキャンバスを彩るドローンも花火もとにかく美しくて雄弁だった。初見では意識しなかったが、ドローンの静と花火の動の対比構図も面白い。
また、前述の座席ヒエラルキーの逆転はここにも該当すると思う。S席は花火の特等席だったが、VIP席はなかなかガッツリ見上げる角度となった。下から見るドローン、花火はそれはそれで珍しい経験だった。
この体験に紐づく感動は、Adoさんファン全員が待ち望んでいるBlu-ray・DVD化を果たしても、さすがに再現が難しいと思う。視野の外の頭上から突如として現れるドローンの驚き、花火が上がったらあとの香りは国立競技場の中だけの特典だ。
手品的な発想だが、観客の視点を夜空に釘付けにする間に、次の楽曲の準備や、Adoさんたちのわずかながらの休憩になっていたのだろうか。
ところで、前回の「マーズ」でのMCでAdoさんは「私は夏らしい経験をできていない。本物の花火も見ていない(「花火」の背景映像の花火しか見ていない)」ことを強調していた。今回はAdoさんと観客が同時に花火を見ることができた。それはAdoさんの青春の1ページになっているといいなと切に思う。

5.スペシャルゲスト
今回はアンコールで日本の音楽シーンでも非常に重要なスペシャルゲストが登場した。それも2人も。あまりの贅沢さに、それまでの感動も相まって、私はなぜチケット代だけでこんな経験をさせてもらっているのかと不思議に思ってしまうほどだった。お財布事情によっては、規制退場のどさくさの中で客席に1万円札をそっと置いて帰っていてもおかしくはない。その場合はなんだかんだ落とし物と間違われて戻ってきてしまったかもしれない。だとしたら、出口でフリフラに混ぜて回収所に1万円札を投函してもいいかもしれない。そんな身勝手なお布施を収益化することもできない以上、結果として運営サイドに余計な仕事を増やすだけかもしれない。
B'z松本孝弘氏は世代やファン層によってリアクションがさまざまだったことが印象深かった。ところで「ファン層」と言えば、Adoさんのライブに来るファン層は個人的にいつも興味深く思っている。これは統計でもなんでもなく、ざっと会場を見渡した際のただの印象でしかないが、大別すると①ボカロファン、②アニメ・声優ファン、③音楽ファンに大別されるような気がしている。歴の長いファンは①、『ONE PIECE』で②③を一気に増やしたような印象。もちろんきれいに大別するものではないし、例外的な属性も結構いそう。私も②か③か微妙なところではある。こんなことは余計なお世話だが、今後の海外進出の鍵を握っているのは③だとは思う。
余談に余談を重ねてしまうが、米ロックバンド「エヴァネッセンス」のボーカリスト、エイミー・リー氏とAdoさんの声質は部分的に似ている気がしている。セカンドアルバム「ザ・オープン・ドア」の「スウィート・サクリファイス」なんかが特に顕著だと思う。だからというわけではないが、Adoさんのボーカルは少なくとも北米のロックシーンとそんなに相性が悪いとは思えない。
せっかくなので初音ミク氏にも触れたい。ディスプレイを活用した共演はみごとだった。単体で見ると、Vtuberのファン層からすると技術的な目新しさはないのかもしれないが、それでも同じステージに立った瞬間は心を掴まれた。今この時はどうなのか知らないが、世界で最も成功を収めたと言われるバーチャルバンド「ゴリラズ」のライブを思い出すステージだった。
遠くない未来、本格的に海外の音楽シーンでAdoさんが重要人物になった暁には、今度はAdoさんが重要なスペシャルゲストとして誰かに呼ばれる日が来るのか。そしてそれを事後で知り、誇らしさとともに、立ち会えない悔しさを噛み締めるような日が来てほしいと切に思う。

6.ゴンドラ
今回の目玉サプライズだったのではないかと思う。何事も偏見や色眼鏡はつきもので、Adoさんが物理的に客席に近づいてくる日が来るとは夢にも思わなかった。これも座席ヒエラルキーの逆転なのか、2日目のVIP席はゴンドラの恩恵にあずかれなかったが、1日目は比較的よく見えた。
やはり物理的距離はイベントコンテンツの中でも抜群にエキサイティングな物差しだと思う。特に素顔を見せないAdoさんの特性上、とても相性がいいのかもしれない。
ただ、葛藤はあった。どうせなら素顔を少しでも見たいという野次馬根性と、せっかくのライブパフォーマンスをそういうスケベ心で上書きしたくないという潔癖さとの葛藤だ。結局は見ようとしたし、ギリちょっと見えたくらいの結果だったのだが、煌びやかなゴンドラに自分の虚栄心を暴き出されてしまった。
今回の「心臓」を通してそうだったが、今後Adoさんは顔を出すのだろうか。そもそもなぜ顔を隠すのか、という点は、ご本人の意向はもちろん、キャラクター醸成、プロモーションなどさまざまな角度で理由があるのかもしれない。今後出すのかもしれないし今後も出さないのかもしれないが、どちらにせよ、Adoさんの活動にプラスに働くといいなと切に思う。

7.MC
本当はこの項を書きたくて今回noteを手に取ったのだが、ここまで辿り着くのになぜかとても時間が掛かってしまった。
以下、特に記憶を頼りに書くため間違いや誤解が多分にあるかもしれない。妄想(フィクション)だと思って読んでもらいたい。
1日目と2日目のMCは、内容こそ大きくは変わらなかったが、決定的に違いがあったように思う。特に終盤のMCで、1日目に対して2日目はよりエモーショナルな印象が強い。1日目は比較的淀みない語りだったが、2日目は言葉を選んで話したり、感極まる度合いの差も顕著で、体感だが時間的なボリュームも多かったように思う。
話の内容としては、乱暴にまとめてしまいたくはないが、①ルーツの話、②ボカロと歌い手の話、③心臓の話、④これからの自分の話、といった受け取り方を私はした。これも主観の印象値でしかないが、話に掛けた時間や熱量の比率をあえて数値化するとしたら、1日目は①30%、②40%、③20%、④10%の語り。それに対して、2日目は①50%、②40%、③5%、④5%といった印象だった。
比率はただの比率、本人の意思のほか、当日のコンディションやさまざまな外的要因にも影響されると思う。ここで私が気にしてるのは、偶像と本人の乖離について。
「本人」といってもプライベートなオフの姿とか容姿とかそういう話ではなく、あくまでパブリックな歌い手としての理想や活動方針のことが言いたい。ORIHARA氏のビジュアルが先行し、姿は見せない(が全く見せないわけでもない)ある意味、2次元でも2.5次元でも3次元でもない「次元の狭間」にいるわけだが、型にハマらないということは、だれにも扱い方がわからないということも言えて、ファンも例外ではないと思う。
今回のMCで少し引っかかったのは、Adoさんの「昔から自分のことが嫌いで、何度も道を断とうとしたが、ボカロと歌い手に救われ、今では自分が少しは好きになれそう」という趣旨の話(と私は理解している)のときのことだ。Adoさんは、特に2日目、「取り柄もなくて、暗い性格で」と、いかに自分が自分を嫌っていたかという点に解像度を高めていく話し方をしていた。その際、現場では客席からステージへ「そんなことないよ」「好きだよ」といった声が掛けられていた。私の理解では、Adoさんはそんな自分そのものを肯定しはじめている、という趣旨の話をしているのだが、この声援は本人が肯定しようとしている大切な部分を否定していないか? 声援そのものを否定しようとは思わないが、ここでのAdoさんの主張は「ボカロと歌い手」に救われた話であって、客席からの安易な共感ではないのでは? ここがすれ違うと今後とてつもなく大きなズレに繋がっていくのでは? と脊髄反射のような声援を聞いて、なんだかチグハグな思いに駆られてしまった。これは私見だし、本当のことなどわかりはしないが、一ファンとして、ファンなら推しの声にはもっと慎重に耳を傾けるべきではないかと思わざるを得なかった。
私が一ファンとして唯一願っているのは、Adoさんに1秒でも長く活動し続けてほしいということ。あまりに身勝手な希望で薄汚れた欲望だとも思うのだが、少なくとも私にとっては偽らざる本心だ。ただこの願いは、個人としてあまりにも壮大な夢を、現時点で3つも掲げているAdoさんの指針と相反しない(と思っている)。私はそのためになる方法でこれからも推し続けられたらと切に思う。

これは私のための覚え書きであって、文章の体裁をきれいにする必要は特にない。したがってこれで終わってもなんら差し支えないのだが、まとめがないといまいちスッキリしないので簡単に記したい。

Adoさんはどこから来たのか。Adoさんは何者か。Adoさんはどこへ行くのか。
この辺りが今回の「心臓」でかなり明瞭に提示されたように思う。劣等感を抱えた少女が歌い手になって世界へ行く。この現在進行形のダイナミズムが国立競技場で爆発した。

我々はどこから来たのか。我々は何者なのか。我々はどこへ行くのか。
むしろ問題はここだと思う。さまざまな場所から国立競技場へ流れ着いたAdoさんのファンは、どこへ行くべきなのだろうか。
当然Adoさんの行くところにどこまでもついて行くべきなのだが、大きな奔流の中で、無自覚に無抵抗に流されるのか、流れを見つけて泳いでいくのかは、流れ着く先に相応の違いが出る。流れの先に何を見るべきか、そこを見誤ってはいけない。
立ち止まっている時間はない。心臓の動く限り、ルーブルへ向かって走れ!

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