性被害を「味方」からも矮小化される二次被害

私は幼児の頃から受け始めた猥褻を含む虐待について、父親と母親を訴える準備をしている。

そのことを電話相談員に話すと、日本でも父親を実名で刑事告訴した女性のニュースを教えてくれた。

ニュースは私にとってトラウマのトリガー(引き金)の宝庫だから敬遠してるけど、自分に関係がある情報を周りが教えてくれる時に追うことがある。

女性が父親から受け続けた性的暴行を訴えたこと、

実名を公開することで性犯罪が身近で起きていることを社会に啓発する意志、

親族から二次被害を受けながらも突き進んだこと、

尊敬に値する。

同時にある場面から複雑な感情がぶり返した。

女性が、近親姦被害の自助グループ主催者に相談する場面。

私も過去に近親姦被害の自助グループに参加したことがあったのだけど、行かなくなった。

その原因は他でもない、主催者が別の女性に言った言葉だった。

「近親姦の姦の方の自助グループを作りたいよね」

と、キンシンカンの「カン」を強調した。

主催者も別の女性も性的挿入を受けた話をした後で、私は猥褻の話しかしていない。

たかだか性器を手で触られただけ(それ以外にも色々あったけど)で、近親姦被害を受けたという新参者の私が目障りだったのだろう。

私の考えすぎだと思いたいけど、わざわざ私の前で「姦」を強調し、差別するのはどうかなのかと考えると、疑問は拭いきれない。

その頃、性的暴行サバイバーの自助グループもあり、参加条件が「近親者以外から性暴力や性虐待にあった人」だった。

なぜ「近親者以外から」というのが条件なのでしょうか?と私が主催者に聞くと、

「昔は共同だったようですが、近親者以外の方から「こんな体験でミーティングに来ていいのですか?」という質問が多かったようで、ある頃から別々の活動になったようです」

という回答を受け、参加前から複雑な気持ちを覚えた。

同じ性犯罪でも、加害者が近親者であるだけで、周囲に信じてもらえなかったり、親族に影響を及ぼすという意味で、二重にも三重にも声をあげ、支援を受けられるハードルは確かに上がる。

でも加害者が誰であれ、被害者は自分の心と体を大半の場合、信頼関係にある人から侵害されたということと、社会や法律が被害者を守るようにできていない現実は変わりない。

被害の重度がより酷いとされている人が、比較的に軽いと判断した人に対してマウントをとっていいものではない。

それこそ性的二次被害、セカンドレイプだ。

私は奇しくも、近親姦の自助グループの主催者から性的二次被害を受けたことがトラウマのトリガーになった訳だけど。

こんなことは珍しいことでもなんでもない。

私が初めてゲシュタルトセラピーを受けた時にもあった。

「悪夢だ」と思い込もうとしてきたことが、もしかしたら実際に起きたことで、だとすると「近親姦被害といわれるやつなのかもしれない」と認識し始めた瞬間のこと。

私の話をとりわけ興味津々に聞いていたソーシャルワーカーの女性がこう言った。

「あなたよりもっと酷い目にあっている子を大勢知ってるわ。頑張って。」

百歩譲って励ましの言葉のつもりだったとしても、私はいまだにもやもやしている。

「あなたよりもっと酷い目にあってる子を大勢知ってる」って何?

そもそも30分しか話していないのに、私の人生を知り尽くしたような言い方をされ、そのうえで大勢の他人と深刻度を比較され、私の性被害を矮小化された気持ちだ。

プロの立場にいるからと言って、適切な対応ができる人ばかりと思ったら大間違いだということは何度も経験してきた。

機能不全家族の概念を日本で広めたベテラン精神科医の言葉も酷かった。

私は、両親から「愛情表現」として受けた虐待に混乱し、それを理解し肯定しようと、弟たちに同類の加害をしたという自覚が蘇り、自責の念に駆られている。

そのことを話したら、ベテラン精神科医に三つのことを言われた:

①私が受けた性被害の重度の位置づけ(聞いてもいないのに!)

②兄弟間の性的行動を性犯罪に含み始めたら、膨大な数になってしまう

③もっと酷い目にあったとする女性の話をいきなりし始め、診察が終わるまで聞かされた

要するに、私の場合は性犯罪の深刻度の指数からも軽い方で、私よりもっと酷い目にあっている人がいるし、弟への加害もありふれたことだから大したことではない。

私は日本の精神医療のレベルの低さを改めて見せつけられた気がして、唖然とした。

優秀な先生、いや人間とは、本を何冊書いてきたか、何十年のキャリアがあるか、どれほど有名かではないんだな、と学んだ。

こうやって、私は「児童性虐待」の問題に携わるプロフェッショナルな人たちからも幾度と心無い言葉で傷つけられてきた。

原因はプロたちも未熟な人間であるばかりに「マウントを取りたくなるから」だと思う。

あなたよりもっと酷い目にあった人「である」あるいはそういう人を「知っている」だけで、経験値が上がったような気持ち良さに浸れるのだろう。

でも、その未熟さが手に取るように分かるのは私自身「自分より可哀想」と思える人の話を探しては

「自分はまだ恵まれている方だ」と自分の被害を無視したり、矮小化しようとする人生を送ってきたからだ。

いまだにやってしまう。

例えば、より重度な性加害とされている「性的挿入」を受け始めた被害者の年齢が、

私が猥褻を受けた年齢より上だとすると、4歳の私が嫉妬する。

「あなたはOO歳までは子供時代があったんだ。」

だから自分よりもっと若い歳から被虐した人の話でないと共感が難しい。

生まれてすぐに親に捨てられた赤ちゃんや、3歳までに虐待を受けた人の話でないと集中力が持たない。

更に0~3歳の時から性被害を受けていたとしても、片親や親族に味方がいた・いる被害者であったりすると、再び4歳の私が妬む。

「あなたには味方がいた・いるんだ。」

0~3歳からネグレクトや性被害を受け始め、見方がいない人のケースばかりを追っていると、

連続殺人犯や小児性虐待者になっている確率が高いことに気づく。

私は小児性虐待者にはなってしまったけど、連続殺人犯にはなってない。

4歳までの記憶が抜け落ちてるにしても、それまでは性犯罪に巻き込まれた自覚はない(0歳時の盗撮は後に気づいたため)。

私は自他の心は散々傷つけてきたし、自殺(安楽死)願望もあるけど、4歳までは幸せだったに違いなく、そういう時代があったから、まだ人を物理的には殺していないのかもしれない。

そうやって「より酷い目にあった人の話」を見聞することで、自分にも正常な部分が残っているのかもしれないと、やっと客観視できたりするのだ。

他人の不幸は蜜の味とは、不謹慎ながらよくいったもので、

自分に起きたことの客観視的な理解や、癒しを得る手段として、被害者にとっては不可欠な情報だと思う。

けれど、あなたがどんなに権威ある偉い立場の人であっても、目の前で被害を訴えてる人に対して「あなたよりもっと酷い目にあった・そういう人を知っている」というのは、

被害者の傷に塩を揉み込むだけなので、本当にやめていただきたい。

やめてください。

お願いします。


ちなみに、この日は性犯罪に反対するフラワーデモの日で、初参加しようか迷っていたけど、行かないことにした。

人の無自覚な偽善を耳にするたびに、心が膿だからけで傷が疼く私は「味方」と油断したすきに打撃を喰らいやすい。

フラワーデモにいつかは参加したいけど、近親姦の自助グループでも増えてしまったトラウマを思い出すと、今の私にはリスクが高すぎると判断した。




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