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棋譜並べと"感覚"

囲碁をやる上で碁会所やサロンでお話していると、〇〇さんは感覚がいいのね〜とか、才能があるのね〜などと、馬鹿にしているんだか本当にそう思っているんだかよくわからない会話がよく発生する。

ここで少し考えてみたいのが、"感覚"というものについてである。しかしまずはいきなりではあるが、脱線しよう。子供の碁の才能という話になるとよく、強い子や負けない子に注目がいきがちではあるが、私はそうではないと思う。子供段階での碁の才能というものはほとんどの場合大人側の勘違いのケースが多い。本来子供の碁の才能というのは強さではなく、熱中しているかどうか、夢中になって周りの言葉が聞こえていないかどうかで判断するべきだと思う。幻庵が残している言葉に、"諸君氏碁は運の芸と知りたまえ"というのがある通り勝ち負けは大した問題ではない。 

そうなると彼らの技術面に対する理解はどのような言葉を使えば良いのだろうか?ここで登場するのが、"感覚"なのだと思う。しかしここで使われる感覚という言葉においては、中央や戦いの勘がいい時には使われるが何故か、辺や隅に対する技術面に対してはあまり使われていない気がする。どういうことかというと、感覚はまるで天賦の才のように使われているのである。もちろんその子その子独自の碁に対する感覚という物があるとは思う。しかしその"感覚"は果たして本当に碁とはなんの関係もないところから突然降ってきたものなのだろうか?その答えは当然否である。もしそのような子がいるのなら、そんな子は誰にも教わることなく、本の数年でプロレベルに至るだろう。となると、その感覚はどこからきたのか?
今はAIの時代になったことで、人間の棋譜を並べさせないようにする教室や道場も少なくないと聞く。そうなると当然個性も生まれてこないのは当たり前である。ここで出てきた"個性"と密接に関わってくるのが"感覚"である。

そうなると、話が見えてくるのではないだろうか?感覚の正体は個性そのものであり、それらは本来棋譜並べから来るのである。

そこで今回話をすると良く聞かれるのが、"棋譜並べって効果が出るまで時間かかりますよね?"って質問です。ただここには大きな間違いがあると私は思っています。本来棋譜並べと言われるものには二種類あると私は思っています。

一つ目の棋譜並べは仮初の棋譜並べで、別の名前を与えるなら"棋譜覚え"になるのでしょう。碁盤の上に本やアプリを見ながら淡々と碁石を載せていく作業が棋譜覚えである。これは所謂石の流れを感じる作業であるため、この作業から効果が得られるまでには時間がかかる。さらにいくつも似たような棋譜を並べなくてはいけないので、気力的にもかなり疲れる作業である。

2つ目がある意味本当の意味での"棋譜並べ"である。みなさんも対局後には検討という振り返りをすることがあると思います。本来の棋譜並べはそれを他人の対局である棋譜を使い行うということなのである。そうなるとこれには棋譜は本質的にいくつも必要ではない。寧ろ一枚の棋譜の棋譜並べを終えるまで何時間あるいは何日もかかるわけである。その中にはヨセの勉強なども当然含まれている、自分に無いヨセの技法を学んだり、もしくはその棋譜におけるヨセへの批判と訂正を自分で行うといったことである。これらの作業を含む棋譜並べであるならば、効果はすぐにでも現れるであろうと私は思っている。何より私はアマチュアの碁会所初段くらいから今に至るまで実践しているが、毎回大きな発見ばかりである。棋力が低いからできないというのであれば、騙されたと思って一度やってみてほしい。根気よく最後まで一枚の棋譜の棋譜並べを終えた時みなさんも確実に強くなっているはずである。

しかし今日のAIの台頭と流行により、その感覚と個性を身につけるタイミングをアマもプロも失いつつあるように思える。勝てるならなんでも良いと言うのであれば、それほど寂しいことはないと思う。自分の生き方に合った個性を是非棋譜並べから探し出してほしいものである。

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