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【雑感】学校の部活動、徒然に。

大阪市立桜宮高バスケットボール部の主将だった男子生徒=当時(17)=が2012年に体罰を受けた後に自殺した問題で、元顧問の男性が日本協会に指導者資格の回復を申し立て、協会の裁定委員会が認めない判断を下したことが9日、分かった。協会が明らかにした。

元顧問は13年6月に資格を取り消された。協会の規定では、懲罰から10年が経過すれば回復の申し立てができる。裁定委員会が調査、審議し「再び違反行為をなすおそれがない」と認めた場合は、理事会に答申。理事会が可否を最終判断する。

出典:「バスケ協会、大阪・桜宮高元顧問の指導者資格回復認めず 体罰受けた主将が自殺」
(『産経新聞』2024年5月9日)

少し前のニュースですが、中学・高校と息子がそれなりに厳しい部活(どちらも公立でした)にいたこともあり、気になった内容でした。元顧問の方は12年前の時点で指導者資格を取り消されて、また当時有罪判決も受けていたとのことですので、そちらの罪の償いにも一区切りついたのかな位で見ていたのですが、、

6年前、協会が新たな規程を設け、除名となった場合でも、10年が経過すれば「復権」を申し立てることが可能になったため、元顧問は、ことし2月になって、指導者としての資格回復を求めて協会に「復権」を申し立てたということです。

これを受けて協会の裁定委員会は、元顧問や遺族から事情を聴くなどして調査や審議を進めてきましたが、9日までに「再び体罰などを行うおそれがないとはいえない」などとして「復権」を認めない判断をしたことが関係者への取材でわかりました。

亡くなった桜宮高校の男子生徒の両親は「事件のあと元顧問から連絡や謝罪はなく、息子の命が失われたことに向き合っているようには思えなかったので、結果を聞いてほっとしています。処分を受けた人に対する教育などを進めてほしいです」と話しています。

出典:「大阪 男子高校生自殺 体罰のバスケ部元顧問 資格回復認めず」(「NHK NEWS WEB」2024年5月10日)

こちら、元顧問の方の談話等は確認できていないので、あくまでオープン記事ベースでの話となりますが、「事件のあと元顧問から連絡や謝罪はなく」が事実であればさすがに認められなくても仕方ないだろうな、と思います。

そして、それと前後して「X(旧:Twitter)」で見つけた次の画像の内容が少し気になりましたので、徒然に。。

(引用:treepianoさんのXでのポストから,2024年5月8日)

ざっとまとめると、、

・学校生活、学業を優先すること(成績悪かったら部活はダメ)
・(バスケは)チーム競技であるので、チームとしても強くなろう
・参加する以上は本気で真摯にやろう
・元気に挨拶しよう

といったところでしょうか、内容的には至極真っ当にまとめられていると思います。息子も中学・高校とバスケットボール部でしたが、それぞれの入部時には同じような内容の部活案内が配られて、本人が嫌じゃないのであれば頑張ってほしいくらいで夫婦揃って読んでいたのを覚えています。

その上でまず一つ、これは実際の息子が中学2年の時に所属していたバスケ部での出来事となります(なお、私が把握している情報をベースとしての整理になりますので、あくまで個人の見解となります)。

結論から先にお伝えすると、息子が中学2年に上がったくらいのころ、当時バスケ部顧問をやられていた教員の方(以下、A先生)が、とある理由で顧問解任となった事件がありました。

息子の中学は普通の地元公立学校で、特に何かの強化を図っているような学校でもなく、A先生が着任されてから(確か解任時点で着任5-6年目くらいだったハズです)、都大会への出場権を争える水準にまでバスケ部が引き上げられていた感じでした。それだけに、それなりに厳しい活動内容であるとの事も入学前から聞いていましたし、上述の写真のような内容の部活案内が配られていたのも覚えています。

息子自身は小学校4年くらいの時に学童で教えてもらったバスケに不思議とハマり(野球やサッカーも体験会に連れて行ったのですが、それぞれ1度きりで終わってます)、ちょうど通っている小学校で立ち上がっていたミニバスに参加させていただいて、相性もよく楽しかったのか、小学校卒業時には5番をもらえるくらいには成長していました。

また小学校での同学年も多く、ミニバスで一緒にやっていた10名以上がそのまま同じ中学、バスケ部に上がって、厳しいけど上手く(強く)なれるよ!なんて、みんなで楽しそうに参加していました。その後入学から約1年、息子自身についてはレギュラー争いに一喜一憂しながらも楽しそうにやってるな、位で見ていたのを覚えています。

試合観戦にもそれなりに行っていて、会場などで見かけるA先生の言葉・態度がきつく感じたのは事実ですが、それは誰か特定の一人に対してではなく、学業や挨拶、バスケ(でのプレイなど)の振る舞いに対しての指導で、そういった意味では部員全員をフラットにみてくれていたと、私個人は考えています。

それでも1名、不登校寸前にまで追い詰められた生徒が出てしまい、結果として息子世代が中学2年冒頭でのA先生の顧問解任につながってしまいました。その後のA先生は、息子たちが中2の年度は顧問から外れたものの教員としては在籍されていて、中3になる年度で別の中学に異動となられています。もともと東京都の教員の皆さんは6年くらいのスパンでローテーションしているのでタイミングがよかったのもあるでしょうけど、解任騒ぎも少なからず影響していただろうとも見ています。

なお、そちらの生徒というか保護者さんが「A先生のパワハラが原因である、息子が追い詰められてしまっている」とのことで、東京都の教育委員会に直談判をしたとまでは、このことで開かれた保護者会での概要も含めて伺っています。

息子たちの世代はまだ中2でしたが、一つ上の世代は中学3年との最終学年、春季の中学最後の大会に向けて準備をしている最中でしたから、中々の騒ぎになりました。一つ上の世代は小学校のミニバス時代から親子揃っての交流もあり、その直談判をした保護者さんもミニバスのコーチをしているといったつながりもある中での話だったので、より衝撃でした。

率直に言えば、事前に「学校や他の保護者に相談することはできなかったのか」と思いましたし、もっと言えば「息子さんを一時的にせよ休ませるような選択肢は無かったのか」と感じたのも事実です、そしてまた保護者さんの求めていた着地点もいまいち不透明でモヤモヤしたのは今でも思い出せます。

ただ一方で仮に、自分の息子が同じ立場に陥ったら同じことをしなかったか?と問われたら、「しないよ、息子を休ませるわ」と明確に回答できる自信がないのもまた、事実です。

その後、これもまた縁なのでしょうけど、一つ上の世代の保護者つながりでバスケットボール顧問の経験をお持ちの方が見つかり、入れ替わるように「外部顧問(以下、B顧問先生)」として息子たちとその一つか二つ下の世代までをお世話いただきました(それとは別に教員の顧問先生もおられました、バスケは未経験でしたが)。

こちらのB顧問先生、バスケに対する知識やスキル、チームビルド、いい意味での厳しさはA先生と遜色がなく、最初は「何で知らん人に教わらなくちゃならんのだ」と懐疑的だった息子たちもほどなくして受け入れていました。

また息子も含めて一部の生徒たちとは大学生になった今でも親交が残っているようで、大学入学の報告を送ってましたし、つい先日もフリーバスケに呼ばれてたりもしていました、こういった出会いは大切にしてほしいところ。

さて部活動については中3の途中からコロナ禍(武漢肺炎)でグダグダになってしまったとはいえ、それまでの1年半ほどは地区大会を勝ち上がるのは普通となり、都大会でもベスト16辺りまで狙えるくらいになったのは、あらためて考えると凄かったよなぁ、と思い返したりも。

ただ、選手の起用やチーム分けは、A先生とB顧問先生は真逆で、A先生がある程度のメンバーを固定して回していたのと対照的に、B顧問先生は少なくとも(当時20名ほどいた)3年生を全員公式戦には出すよう調整されていました(それでも上位校とのガチ試合時はある程度は絞ってましたが)。

「(部活は)あくまで学校の延長にあるもので、本人が楽しくないと」と話されていたことは、今でも印象に残っています。

ちなみにこれは伝聞ベースですが、B顧問先生も過去に別チームの指導時にA先生と類似のトラブルをやらかしたことがあるとも伺っているので、過去の失敗を糧にできた一つの実例でもあるのかな、と個人的には。

それを踏まえてのA先生、異動先の中学でもバスケ部の顧問を続けられていて、息子たちの一つか二つ下の世代を都大会に出場させるくらいにはなられてたようです。そういった意味ではこの失敗を糧としてくれていれば、なんてたまに思うのは、くだんの保護者会の際に真摯に謝罪されていると感じたからでもあります。

さてうちの息子、中学でも卒業時には5番を貰って副部長的な立ち位置で頑張っていました。高校でもバスケを続けたいとの思いも強く、バスケに力を入れている所を基準に高校も選んでいたようで、最終的には同じ中学の友人が誰もいない少し離れた都立高に通うことになります。

その高校の顧問の先生も、A先生やB顧問先生と同様に厳しい先生で、練習時の物言いもそれなりに熱く(普段は優しくて面白い先生でした)。また入部時に中学同様の内容の案内資料が配られてもいて、まぁ、強いってことにはそれなりに理由があるのだろう、なんて風にも見ていました。

ちなみに都立ながらにバスケットボール部の推薦入学枠を持っている位に力の入っている環境でした(息子は推薦枠では落ちて普通入試でした)。

そんな環境だと流石に周囲のレベルがぐっと上がり、息子も大分頑張ってはいたもののちょこちょことケガをしたのもあってか、ベンチ入りはできているものの中学の時ほどに最前線でのプレイタイムは貰えていませんでした。

ですが、まぁ、こればかりは仕方ないなぁ、と。それでも部員が50人超えてる中でのベンチ入りは頑張っていたのではないかとも(大分イライラしている時期もありました、当然ですが)。

そんな環境でも(一応)副部長という役職(主・副ゲームキャプテン、部長、副部長の4名いたそうです)としてチームを支え、最終的にはチームとして東京都5位(都立では1位)にまで行けたのは普通に凄いですし、頑張っていたと思います(いじられもしてましたが)。

そしてまた、何のかんのと息子たちの世代(25名だったかな)は、3年生になっても強豪校とのガチ試合の時は半数以上がベンチ入りすらできない熾烈さでしたが、それでも誰一人として部活を辞めなかったのは、と、それなりに考えさせられたりもします。

子どもたちの意識も高かったでしょうし、チームとしても同じ方向を向いていて、また、それだけの覚悟をもって臨んでいたのではないかと、、プレイタイムとの結果にはつながらなかったかもしれませんが、それでも腐ることなく、、チーム競技ってのはそういうものだろうと、個人的には。

また試合観戦などに行ってもみんな礼儀正しくいい子たちでしたし、夏にはそのうちの何名かと一緒に合宿免許を取りに行くとかで、何のかんのと一生付き合っていくのではないかなぁ、とみています。

ちなみに私は中高と水泳部、家内はバレーボール部でした。家内はだいぶガチでやっていたようですが、私はまぁ、ゆる~い部活でして、それでも部活の友人達とは今でも定期的な付き合いがありますし、会えば時間を忘れて、ストレスフリーに話せる貴重な存在です、、なんて、徒然と書き綴ってしまった長文にお付き合いいただきありがとうございました。 m(_ _)m

そうそう息子も今年の4月に大学に入ってからは、(学部は違いますが)高校の先輩がいるバスケサークルにお邪魔しているようで、バスケともまた、一生付き合っていくのだろうなぁ、、なんて風にも思いながら。

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