第1473回 川崎町の砂金氏

1、読書記録349

今回ご紹介するのはこちら。

川崎町の文化財第13集「城館」

発刊したばかりの城館調査報告書です。

2、お城のことについては本書をご参考に

東北福祉大学名誉教授の吉井宏氏らを中心とした有志で調査した小野城と前川本城を中心に、本砂金城、前川城、大森山館、上楯城、小屋館山館、今宿清水城館遺跡の8件の城跡について遺された絵図、縄張図、赤色立体図などを駆使し、川崎町内の城跡について現在までの到達点を示した報告書。

また前段には元仙台市博物館市史編纂室長の菅野正道氏が「川崎町の戦国時代」と題して寄稿しています。

不明確な部分が多い砂金氏について、限られた資料からどこまで分かっているのか、を明確にしたもの。

特筆すべきこととしては伊達政宗が本拠を移すにつれ、地域の領主達も所領を移されていく中で、もともとの土地に残ることができたのは砂金氏とその深い関係にあったとされる小野氏以外では伊具郡の中島氏と佐藤氏のみであることに触れ、国境の警備に際して、地理を熟知している者を配置する、という考え方が示されています。

出羽国に通じる川崎の地が重要視されていたということなのでしょうね。

個人的には砂金氏と川崎伊達家の墓所が龍雲寺にあり、その配置図が付されているのが非常に有益です。

池上悟氏も「仙台藩の家臣墓」で触れられており、

https://rissho.repo.nii.ac.jp/records/6708


初代村詮から七代邦賢の歴代藩主、邦賢夫人の墓石の実測図を掲載され、

小型笠付方柱型の墓石を採用する点が特徴的であり、子女墓にいたっては自然石を使用している

と記述しています。

岩出山伊達家や亘理伊達家は円頂方形型墓石という藩主墓石と同じものを採用しているのですが

川崎伊達家は一門ながら家禄が2000石に留まることから、この藩主と同じ形は採用しなかったのだろう、としています。

このことから伊達家が他の家に比べて墓石規制が厳格ではなかったと考察しています。

また池上氏は伊達家の家臣墓については類例が少ないながらも、

家格が太刀上で1300石知行の平渡茂庭家は、初代を除いて平坦な基礎石を伴う小形の円頂方形型墓石、

家格着座で3000石余知行の佐々家は扁平自然石、

家格一家で5000石余知行の柴田氏も扁平自然石という事例が紹介されています。

本報告によって家格一族1400石余り知行の砂金氏の墓石事例が加わるということになります。

家臣のお墓がどのような墓石だったのかが次第に明らかになっていきますね。

3、城跡見学会があるらしい!

お城の報告書なのに、後半は個人的に関心の高いお墓の話になってしまいました。

実は川崎町はほとんど行ったことがなく、子どもの頃に「みちのく杜の湖畔公園」に連れて行ってもらったくらいです。

アラバキロックフェスで有名な公園ですね。

6月8日には本書にも掲載のある小野城の見学会が開催されるとのこと。

私は別の予定がすでに入っており、参加できませんがぜひ参加してみてください。

そして最後に自分の町でのイベントの告知。

5月18日に歴史講演会をやります。

動物考古学の専門家を招いて町内の貝塚から出土した遺物の解説をお願いしています。

このnoteにコメントでもいいので、ぜひ気軽にお問い合わせください。

本日も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。


この記事が参加している募集

一度は行きたいあの場所

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?