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きょうは家族で思いをはせる

「もう、3回忌なの?」「そうだっけ?」年老いた母が、呟いた。
わたしも姉も、父のことを思い出していたはずだ。でも、もう、忘れっぽくなった母は「そうだっけ?」とくちにした。
母が、急に元気がなくなったのも、優しくなったのも、父が他界したからに違いないのに。母はどんな気持ちでいるのだろう。
じぶんの気持ちを話さない母の心の奥はわからないが、わたしと姉はいまでも父を思い、さみしく感じる。実家に通う度に感じている。
きょうは3回忌なので、父のことを話そうと思う。

突然の余命宣告。

「その日は、明日くるかもしれないし、よければ3カ月かもしれません」突然、医者に告げられた余命。

「歩きにくい」「体がだるい」「足が重い」病院へ向かうのも、歩くのが大変になってきて「整形に行ってみようよ」とずっと言っていたのに行くのを嫌がっていた父が、とうとう観念して、病院にいってくれた。

その日レントゲンを撮ったら「脊髄炎かもしれないから緊急で他の病院へ」と言われて緊急搬送していただいた。レントゲンに映った背骨は大きく湾曲していた。次の病院で、もっと重篤と思います。ガンの疑いがあるので、は専門の課がある病院へ。と促され、心臓の手術をした後も通院している大学病院で見てもらうことに。

そこで、突然言われた余命宣告。
腎臓も肥大していて、それはガンのせいで膨らんでいること、足を動かす腰連筋も肥大していて、それもガン。腰椎が凹み曲がっているのもガン。骨に転移していた。腹膜、神経。あらゆるところに転移していて、もうすでに出来ることはない。と言われた。
「突発進行性腎臓ガン」

「……。」
「   」 


「明日、死ぬかもしれない」と先生が言ったのは空耳?
「3カ月もたないで、その日がくるの?」
「治療はできないの?」しばらく沈黙の時間がが流れた……。

父の迷いなき選択


でも、父は「通院したらいいですかね」と先生に聞いていた。
「先ほども言いましたが……。」と言いかけた先生に「放射線治療とか、何かできないものでしょうか?」と姉とわたしも先生の言葉を止めるように聞いてました。父が希望しているのなら、なんでもいいから考える材料が欲しいと。

「できなくはないけれど、射てられる場所も少ないし、気休めにしかないませんよ」と返って来ました。でも、やれることがあるなら。と父は治療を希望したのです。専門の先生たちで話しあうので、後日また来てくださいねと促され、次回に今後を決定することに。

「足腰は、スクワットでもしたら力つきますかね?」という父に、先生が苦笑い。父は元気は足腰を鍛えることだと思っているから、つい口にでたのだろう。でも、それはガンもなんでも同じようにやることやればいいんだと、迷いがないことばでした。もしかしたら「ボケているのか?」と思われたかもしれない。でも父はいたって正常。

「放射線治療してから、少しずつやれるといいですね。まずは治療に専念してから考えましょう。お体大事にしてくださいね。腰椎が削らている状態なので転倒にはくれぐれも気をつけて」

あの日から、姉は仕事をやめ家族に理解をしてもらい、父を最後まで世話をしたいと実家へ入り、わたしは病気の娘の様子をみながら実家へ通う日々が始まりました。

あの日を境に、母は心の大きな揺らぎに、わたしたちは困惑して時に泣き。
父の前向きさに、いまを生きること。さいごまで生きるという意味に気がつけて、多くの大切なものも受け取ることができました。

いつまでも愛してやまない存在


もっと、もっと、もっと父と話したかったし、もっと知りたかった。
もっと、一緒に楽しみたかったし、どこかへ行きたかった。
もっと、もっと、もっと、父と笑いたかった。
もっと……。

こうして書いているだけで、涙で画面が見えなくなってしまいます。

たくさんのことを綴りたいですが、少しづつ書いていけたら。

父の最後の日の朝は、プレスリーのバラードを聞いていました。たくさんのレコードをかけたり、一緒に歌ったりしていましたが、レコードを聴くことも、歌うこともしなくなってしまった。いつレコードをきける気持ちになるのか、きょうなのか、もっと先なのか。

きょう父の好きなもの作ります。
きょうは、わたしたちの知らない父を母から聞けるといいな。
いってきます。


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