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#06 悪魔のささやき

基本ポジティブ思考の月猫だが、過去何度も死のうとしたことがある。

断じて言っておくが、リストカットなどをしたことはない。
わたしの「死にたい」はそういうたぐいのものではない。

昔、一時期登山にはまっていた時期があった。
最初は、「屋久杉を見に行きたい」という、すごく健全な思いからその道に入った。

屋久杉を見るためには、往復10時間の登山をしなければならない。

そのため、素人がいきなり行っても、まあ見ることは不可能に近い。

そこで、友人とまずは富士山に登った。

それから、近隣の低山を中心に足慣らしをし(ちょっと順番がおかしいw)、高校生で屋久島に上陸。

念願の屋久杉を見ることができた。

そして、時を経て。

わたしは社会人になり、キャリアウーマンとしての人生を歩みながら、登山を本格的に始めることになる。

行ってみたかった尾瀬。
登山者ならだれもが憧れる日本アルプス。
首都圏からほど近い、奥多摩の山々。

毎週の土日を登山のために使った。

平日は朝早くから夜遅くまで仕事。
当時わたしは東京へ単身赴任して、石油業界の営業をしていた。

子会社の事務作業からデリバリー業務、親会社にて軽油の輸出入から先物売買、北海道の灯油市場までをこなし、正直ハンパではない忙しさだった。
そして、帰宅後は夜中三時まで原油の売買。
精神的にも肉体的にも、結構限界が来ていた。

そんなわたしが、貴重な休みをつぎ込んでいた登山。

これは、わたしの「死に場所探し」でもあった。

わざと無理な山行スケジュールを組み、わざと困難なルート選びをする。

そう、「事故で」「死ねる」ようにだ。

もちろん、純粋に楽しかったのもある。
困難を乗り越えて、無事に帰宅することに達成感も覚えていた。

だが、心のどこかで。

「また、生き残ってしまった。まだ生きろということか」

そんな落胆じみた考えも、同時に生まれていた。

そんな月猫だが、ある日を境に、この登山に関する価値観、および「死」に関する価値観が変わったことがある。

東京の奥多摩、川苔山(1363m)に登ったときのことだ。

季節はちょうど、雪解けの時期。
登山には少し気が早い、そんなときだった。

その日は、他の山に登るつもりで準備していた。
が、現地で聞き込みすると、登山道が通行止めになっているとのことだった。

せっかく電車を乗り継いできて、山にも登らずおめおめと帰ってなるものか。

わたしは手持ちの山岳地図を見て、たまたまルートの記載があった近くの川苔山に行くことにした。
特に、月猫の好きな鎖場があるわけでもない、割と上りやすい山道である。

地図を片手に山道をゆく。
その道中、中盤での出来事だった。

右手が谷になっていて、くねくねと曲がるコース。
その谷側から、なにか黒い毛布のようなものが、うごめいているのが見えた。

「なんだ?」

思わず、足を止めた。
毛布のような、ふさふさした毛が、だんだんと近づいてくる。

なんと、それはツキノワグマだった。
谷から登り、ちょうど私の真後ろにきた。

多分、距離は1~2メートルしかなかったと思う。
ツキノワグマは決して大きな種類の熊ではないが、それでも、存在感は大きかった。

まだ雪の残るこの季節。
登山者はいない。
目の前にはたぶん冬眠明けでおなかをすかせた熊。

熊とわたしは向かい合うように対峙した。

死んだ。
と、わたしは思った。

だがわたしの脳裏にその時思いついたのは、「やっと死ねる」ではなく、「どうやって逃げるか」だった。

昔読んだ野生動物と出会った場合の対処法の本の一説がよみがえる。

目をそらすな。
走るな。
背後を見せるな。
死んだふりなど論外。

わたしは熊の目をじっとみつけた。
熊も、ぎろりと見返してくる。

ひやりと汗を感じた。

わたしは、目でけん制しつつ、少しずつ後ろに移動した。
熊は微動だにしない。

「大丈夫、わたしは敵ではない」

そう目で訴える。
じりじりと後退していると、ちょうど少し行った先で曲がり角になり、熊が視界から消えた。

そこで、私は猛ダッシュして山頂まで駆け上がった。

どれだけ普段死にたがりでも、実際に突然死を突き付けられたら、生きようとするのが人間の本能らしい。

この時それを、月猫は痛感した。

以来、わたしは「死ぬために」登山をすることはなくなった。
クマよけの鈴も、ちゃっかり購入した。

しかしその後、月猫はキャリアウーマンの道を断たれる直接の原因となる脳の病気を発症する。

その病気が故、その後も何度か死にたいと強く願うことになった。

実際に自殺未遂をしたこともある。

病気ですべてを失ったとき。
激しい絶望と薬の副作用から、計画的な自殺を段取りしたことがある。

10年の時を経てその病気を折り合いをつけ、やっと幸せを迎えられると思ったとき。
いつかこの幸せが無くなるくらいなら、やっと手にした幸せな気持ちのまま、この世を去りたいと願ったことがある。

「死んじゃえば、楽になれるよ」
その悪魔のささやきが、耳元に聞こえるのだ。

きっと誰だって、そんなささやきを聞いたことがあるだろう。

思わずブラウザを検索して、意図せず一番上に表示される「命のホットライン」の文字を見たことがある人は、決して少なくはないと思う。

だけどそれは、本当に死にたいわけじゃないのかもしれない。

ひとはいつも、迷子になっている。
そう、みんなじんせいの地図が読めないから。
ただがむしゃらに前を向いて、イノシシのように進むことしかできない。

死にたくなるほど頑張っている迷子の自分を、きっと誰かに見つけてもらいたいだけなのだ。

悪魔のささやきは、きっと自分自身からのSOS。
死にたい気持ちは、きっと誰かにそれを気づいてほしいから。

わたしはそうやって、いつもこのささやきに向き合っている。

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