ハイライト改訂版㉟

 足を踏み入れた公園は薄暗かった。住宅地の空きスペースに作られた公園は中心部に大きな木が植わっていて、端の方には鉄棒とベンチ、分煙の為に四枚のパーティションで区切られている喫煙所、公衆トイレがある質素な造りだった。電灯は六つあったが、そのどれもが弱弱しい。これならLEDライトを三つか四つ設置した方が明るさの効率はいいだろう。でもそれでは明る過ぎて周辺の住宅には迷惑だろうが。ただ、近代的ではないことで夜の公園の独特な雰囲気が漂っており地元の公園にどこか似ていた。何かを変える為に、背を向けたことを思い返してしまう。
 誰もいないと思っていたが、鉄棒の前では若い男女が二人並んでいた。一人はピンクのダウンジャケットを着てニット帽を被り、一人はマウンテンパーカーを着ていた。その二人は、どこか形式ばった動きをしており、その動きは夢追い人であることを示していた。クリスマス・イブに若い男女が夢の為に練習している姿は、僕には輝いて見えた。
「あそこの二人組、何やってるんだろうね?」
「多分、漫才の練習じゃないかな?」
「あぁそうかも。なんか青春だね」
「そうだね」
 僕達は漫才師らしき二人組の邪魔にならないベンチに腰掛けようとしたが、少しだけ濡れていたので彼女が座る前に持っていたハンカチで拭いた。僕が座ったのを見てから倣うように彼女もベンチに腰掛けた。ボリュームを最小限に設定したテレビの音声のように、漫才師のやり取りがうっすらと耳元に届く場所だった。しばらく僕達は何も話さず、漫才師のやり取りを聞いていた。
「……あのね、カズ君に報告があるんだ」
 最初に会話の口火を切ったのは彼女だった。公園から見える景色をぼんやり見ていた僕は彼女の方に顔を向けた。こんなに近くに座ったのは、夏のバーベキュー以来だった。
「私ね、ちゃんと葛西さんとの関係を終わらせてきた」
「うん」
「ちょっと悲しかったんだけど、今は別れて良かったと思ってるんだ」
「うん」
「ありがとうね」
「僕は何もしていないよ」
 葛西さんと対峙したことを彼女は知っているのだろうか。そんなことを考えていると、どこからの家から漏れる幾つもの明るい家庭の声が静かな公園に響いた。この場所は本来、昼間に機能する場所であることを感じながら、彼女の次の言葉を静かに待った。
「……正直言うとね、葛西さんがいなくなったら私どうなっちゃうんだろうって思ってたんだ。美沙とか頼れる友達はいるけど、今回の件で誰にも相談できなくなっちゃったし。それに事実だけを客観的に見れば、私のやったことは否定されても仕方がないことだってこと、分かってた。だから余計に苦しかった。だからかな、夜一人で居ると怖くなったんだ。誰にも胸の内を話せないし、誰かに助けを求めちゃいけない。だって私が選んだことなんだから。それを葛西さんに言ってね、その度に子供みたいに甘えてた。でも私は二番目。結局最後は一人になっちゃうんだろうな、って思ったら寂しかったし、泣きそうになった。だからずっとカズ君を利用していた。でもこんな自分勝手でどうしょうもない私を受け入れてくれて、いつも私を支えてようとしてくれた。その優しさにずっと甘えてた」
 彼女の独白を僕は黙って聞き続ける。
「就職活動の時もそう。葛西さんからもアドバイス貰ったし、励まされた。美沙にも色々相談したし、キャリセンの人にも助けてもらった。そういう人達のおかげもあるとは思うんだけど……。最後はカズ君の写真が支えだった。バーベキューにも言ったけど、履歴書にはカズ君が撮ってくれた写真が貼ってある。そう思うと気が楽になったし、私のお守りだった。カズ君は、いつも見えないところで私を支えてくれている気がしたんだよ」
「うん」
「屋上で話した時もカズ君は私を肯定してくれた。優しさが痛いって言っちゃったけど、本当は安心したんだよね。本当に自分勝手だけど、カズ君が居てくれるって」
「うん」
「あの時、なんで私の事を肯定してくれたの?」
 核心に迫る質問が耳に届く。返事を考えている間、さっきまで聞こえていた様々な音が嘘みたいに聞こえなくなって、全ての音が切り取られたかのように何も聞こえなかった。頭に浮かぶ言葉を何度も精査して、最初に浮かんだ言葉を声に出した。
「茜ちゃんの気持ちが、なんとなく分かったから。不倫って、言葉にしてまとめてしまうと、ひどく悪いことに聞こえるけど……、それは一種の片思いの成功だと考えることができるかなぁって。オレ、片思いの辛さをよく知ってるから。どんな形でも片思いから脱することができたら報われることが少しはあるのかもしれないって想像できた。もしオレが片思いの人と一緒になれるなら、間違っていたとしても踏み込んでしまうからさ……。だからあの時は肯定したんだ」
「……」
「でも今は違う」
 静かに語っていた声から少し熱の入った声に変わる。無意識だった。
「茜ちゃんが好きな人と一緒に居られるのであれば、それでいいと思ってた。でもね、それは自分を守ってるだけだって、誠治たちに諭されて。――本当は、今も茜ちゃんの隣に居たいと思ってる。それに茜ちゃんが好いた人よりも僕のほうが茜ちゃんの横に居て支えられる自信がある。だから、僕は僕の気持ちに正直になろうと思った」
 一拍置いてから、神楽坂でデートをした時から抱いている想いを素直に言葉にした。
「茜ちゃんのことが今でも好きです」
 公園の端の方から「こんな僕ですけどね、よろしくお願いします」と男の声が聞こえ、「なんでお前だけ宣伝してんねん。私の方こそよろしくお願いしますねぇ」と女性の声が応える。男は「なんで二人で個々の存在を宣伝してんだよ」と言う。すると「こういうのも味があるやん」と女性が言い、男が女性の肩の辺りを手の甲で軽く叩き「もういいよ」と漫才の定期文を口にした。そして声を合わせて「どうもありがとうございました」と言って深々とお辞儀をした。
 まるで僕達の気持ちを代弁したかのようなやり取りは、僕の記憶の中で絶対に消えないと思った。告白をしている時に予想外な登場を果たした二人の夢追い人は、ネタが上手く決まったのか、その場でハイタッチをして笑っていた。その姿はなんだか僕らのその後を描写しているようだった。僕は、拙い想像力を駆使して、僕達と彼らの姿を重ねた。
今日は決して忘れられない一日になることは明白だった。そんなことをクリスマス色が薄い公園で、僕は確信していた。
「カズ君の気持ち、本当に嬉しい……」
 僕はベンチに座っていた。そして言葉が小刻みに震えている彼女が続けようとしている言葉を待っていた。雨上がりの公園は、まるで僕達と世間が切り離されてしまったかのように静まり返っている。ここが都内の中心部から近い場所とは思えない。でも、確かに僕と彼女はその場所にいて、二人だけの時間を共有し、二人の時間を刻んでいることで満足していた。
 電話やLINEのように回線を通した状況ではなく、隣には彼女がいる。機微に敏感になり、色々なことに気付ける。些細なことだけど嬉しいと思えた。ここまで来るのにかなり時間が掛かったな、と声にしない呟きを自分の中だけで拡散させる。
 僕の横に座り、少し目を潤ませている彼女は、一度僕の顔を真っ直ぐ見つめた。そして立ち上がり、少しだけ歩き出した。そんな彼女の後ろ姿を公園の頼りない電灯が申し訳ない程度に照らす。
 一抹の罪悪感を抱きながら、首に掛けていた―彼女を最初に写真に収めた―カメラのシャッターを切った。焚いたフラッシュの光で暗かったはずの公園が一瞬だけ、明るくなった。 
この時の僕とカメラは一体化していたと思う。ファインダーを見なくても映った写真が頭の中に想像できた。
 眩い光、カシャ、というシャッター音に彼女は振り向き、一筋の涙を浮かべながら屈託のない笑顔で言った。
「もしかして写真撮ったの?」
 小さく頷いた僕は立ち上がり、目を真っ赤にしている彼女のところまでゆっくり歩いた。

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