ハイライト改訂版⑯

 工事の作業現場を横切った時、不意に彼女は懐かしそうな口ぶりで言った。
「あのヘルメット、懐かしいな」
「えっ、どれ?」
 対象物を探していると、彼女は僕の肩を叩いて、あれだよ、と言って指を指した。指の先にある人を見て僕は面喰った。彼女が指さしていたのは、いわゆるガテン系と呼ばれるタイプの土方のおっさんだった。
「あのおじさんが被ってる黄色いヘルメットだよ」
「平野さんって、工事現場でバイトしてたの?」
「実はね、そうなんだ。もう冬の時期、長野だから雪降るし、もう大変で。手がボロボロになっちゃってさ、ハンドクリームが手離せなかったんだよ」
「そうなんだ、なんか意外」
 真面目な表情になって高校時代の彼女を想像していると、急に背中に痛みが走った。不意を突かれて驚きながら、キョロキョロと周りを見渡す。そんな僕の滑稽な姿を見て、彼女は笑っていた。
「もしかして信じてる?」
「全力で信じた。平野さんの大変だった時期のことを考えて少し切なくなった」
「水野君、人が良すぎるというか、もうなんか面白い」
 頬を緩ませた彼女は、僕の心を持っていくのには充分過ぎる破壊力を持ち合わせていた。
「ウソかよ。信じて損したよ」
 誠治や翔平に対して出る砕けた言葉が自然とこぼれる。
「すぐに人の言う事、特に女の子が言う事を信じちゃダメだよ」
「今ので、人間不信になりそうだ」
 僕は自然に笑っていた。彼女も写し鏡のように笑っている。
「背中、痛くなかった?」
「うん。大丈夫だけど、さっきの平野さん?」
「気付かなかったの? えっ、ウソでしょ?」
「言われて知ったよ」
「さっきの状態で叩けるの私しかいないと思うんだけど?」
 そう言われて、目線を周囲に向けた。確かに僕達の周りには人がいなかった。周りが見えていなかったことに反省しながら苦笑する。そもそも誰か知らない人に叩かれていたら、こんな落ち着いた状況であるはずがなかった。
「本当に痛くなかった?」
 彼女はさっきの笑顔を残しながらも、心配そうな表情へと変わっていく。そんなに気にするなら叩かなければいいのに、と思ってしまう。
「うん、大丈夫だよ。ただ、びっくりした」
「ゴメンね」
「うん。大丈夫」
 何故、彼女が背中を叩いたのか、僕は想像してみた。すると翔平の顔が浮かび、同時に少しばかりおごっていることが導かれた。それはないか、と心の中で呟いて、その答えを破棄した。
「それで本当は?」
「ん?」
 彼女は何を言っているのか分からないというような表情している。困惑顔と言えば、収まりの良さそうな表情だ。
「さっきのヘルメットの話。懐かしいのは、なんで?」
 そう切り出してから僕は歩き始めた。少し進んでから彼女が着いてきていないことに気付いた僕は、振り返って彼女の姿を探す。彼女はその場に立ち止まり空を見上げていた。とても画になっている。彼女に対する感情ではなく、写真に残したいと思う純粋な感情が次の行動へと誘う。
 首から下げていたカメラを顔まで持っていき、フレームの中心に、彼女を置いてからタイミングを見計らった。
街の賑やかさの中に、カシャ、とシャッター音が鳴る。カメラのデータと共に頭の中にもしっかりと彼女の姿は残った。
「えっ、もしかして写真撮ったの?」
 僕は頷いた。少し照れくさそうに頬を赤めた彼女は可愛らしかった。
「ちょっと油断してた。まさかいきなり写真を撮るなんて……聞いてないよ」
 可愛らしく怒る彼女の姿は、印象的だった。思わずシャッターに掛けていた右人差し指を動かした。何度か鳴ったシャッター音に気持ちが高揚した。
「もう撮らないでよぉ。カメラには慣れてないんだから」
 彼女は僕の手の届くところまでやってきて言う。
「じゃあ、これから慣れていけばいいと思うよ」
「もうぉ」
 そんなやり取りをして数メートルほど歩くと、沈黙が訪れた。僕は何かを言って、沈黙を打破しようとした。何を言うべきかを考え悩んだ時間は長かった。緊張が僕の思考を奪い、更に時間間隔までマヒしてしまっていたのかもしれない。
「……ちなみにどんな風な写真になったの?」
 僕が話題を探しているうちに、彼女が沈黙を破った。恥ずかしそうに、そしてどんな写真になっているのかが気になり、興味を隠せないような問い掛けだった。僕は彼女に見えるようにカメラを向けた。その時、今まで感じたことのないような緊張が全身を縛る気がした。
 そして僕は確信する。僕にとっての本当の意味での初恋だということを。
十八だった僕にとってのハイライトは、すぐに、それも鮮明に思い出すことができる。
再び二人で神楽坂の街を他愛もない話をしながら歩いている時、店と店の間の細い道が目に入った。かすかに見える石畳の道が、不意に衝動と定義できそうな感情を刺激し、そして弾けた。
「ねぇ、平野さん」
 僕は彼女の名前を読んだ。
「なに?」
 僕の顔を見ながら優しく問い掛けた彼女の声は忘れられない。その後に言った僕の言葉も。
「ちょっと迷子にならない?」
 虚を突かれた彼女の無防備な左手を僕は掴んだ。
彼女の答えを聞かず、石畳の道に繋がる細い路地の入口に足を踏み入れた。
あの時、僕は何かを見失い、そして見つけた。それは、心に差し込んだ一筋の光に見えた。その捉え方は間違いない。あの時芽生えた感情は、初めて写真を撮った時に芽生えた感情とよく似ていた。

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