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トリップ

 久々に歩く新宿周辺の夜の散歩は、気付けば二時間も経過していた。目的地を敢えて迂回して彷徨っているうちに疲れてしまった。大学生の頃は悩んでいることがあると、頭を冷やすために最寄りだった中野駅から東京駅まで夜通し歩いたこともある。あの時も疲れたけれど、今は疲れの質が違う。不用意な形で年齢を重ねていることを実感してしまう。
 腕時計を見て、時刻を確認する。気付けば、草木も眠る丑三つ時。言葉通り、街は明日の為の英気を養うかのように静かで、深夜0時まで立っていたキャバクラや風俗、居酒屋へと誘うキャッチの兄ちゃん達は姿をくらましている。歓楽街を彩る人間が消えて、残ったのは無駄に眩しいネオンが虚しく光を灯し続けている。終電を逃したのか、それとも行き場を無くしたのか、未成年と思しき若者や泥酔し道端でクダを巻いている中年のおっさんなどがちらほら視界に入る。親と子ほど離れた男女がホテル街へと向かう姿だって、何度か見かけた。警察官だって何人もすれ違った。混沌とした街を守り、不純異性交流に目を光らせ、精神を鋭い鉾のように尖らせながら勤務に従事する彼らの顔には疲労の色が濃く現れ、心労や気苦労が透けて見えてしまうと、同情してしまう。国民の義務である納税の意味をぼんやりと理解したりもする。
 不気味という表現がピッタリと当てはまる道中を進み続ける。オレの姿は他者の目にどのように映るのだろうか。考えても仕方がないことを考えながら、ようやく目的へと繋がる歩き慣れた道を進んでいく。
「殺すぞ、おい」
 甲子園に出場する学校の応援団に匹敵するくらいのボリュームの怒号は路地裏まで響き、そして夜の街に溶け込むように消えていった。幽霊の存在よりも恐怖感を煽る異様な空気が漂っている歓楽街の姿は、エゴと個性が混在していた。なんでか分からないけれど、居心地の良さを感じている。何かしらの篩に掛けられて、細かい網目からこぼれた人間でも居場所があることを知れるこの独特な風景が案外好きなのかもしれない。
 路地裏にある雑居ビルの地下1階に目指した場所があった。煌びやかな光が差し込まない漆黒の闇を彷彿とさせる暗さは、世の中に陰と陽という概念が存在していることを教えてくれるようだった。
 重厚な扉を押し、店内に足を踏み入れた。カラン、と鈴の音が出迎えた。人間の欲望が浮き彫りになっている外とは一線を画している静寂が包むオーセンティックバー。店の雰囲気とスピーカーから流れるピアノ協奏曲の影響か、安堵した気持ちになる。どんなに外が荒れていても落ち着いて場所は存在していると伝えてくれるからだろうか。流れている曲は、モーツァルトかバッハだなんて中学生から飛躍しない音楽の知識が頭に浮かんだ。別に生きていく上で必要なものではなかった。仮に持っている知識以上の知識があったところで世界の見え方が今とは僅かに異なるだけ。きっと今後もクラッシクについて知ろうとしないだろうと思った。
「久し振りだね」
 白髪交じりの前期高齢者に該当するバーテンダーの岸上が声を掛けてきた。クリーニングの行き届いたシャツの上にベストを着て、黒い蝶ネクタイをする姿はバーテンダーそのものだった。何も変わっていないような錯覚を受けたが、優しい笑顔には以前見たよりも皺が多かった。
 オレは彼に応えるように軽く会釈し、店内を見回す。誰も客は居なかった。そしてゆっくりと店内を歩いてバーカウンターの一番奥の席に腰かけた。岸上は次にオレが起こす動作を読み取ったかのように、何も言わずに灰皿を出してくれた。極めて物腰優しい顔。町内会で愛され続ける会長のような表情をしている。
人間のエゴで肥えた街、その大元である水商売という弱肉強食で成り立つ社会で、何十年も店を存続させている強者というフィルターのせいで、何度顔を合わせても、チューニングをしてピンと張ったギターの弦のような緊張感のようなものを抱かせる。こういう善人風の老人が実は闇世界を牛耳るフィクサーだったという創作物は、この世界には飽和するほど蔓延している。そんな創作物に触れたことが影響しているからだろうか。
「何を飲まれますか?」
「マッカランのロックを」
 渋めの声で尋ねる岸上に対して、一拍置いて答えた。「かしこまりました」と告げて酒瓶の並ぶ棚から注文した物を手に取っている背中を眺めた。懐かしさを抱きながら胸ポケットからラークとライターを取り出し、火を点けて煙を吐き出した。カウンターの向こう側からグラスに氷を入れる乾いた音が聞こえ、いつかに描いた理想の大人像を演じていることに自覚的になる。
 昭和と平成の境界線で生まれた身としては、消費税導入やバブルの崩壊、ベルリンの壁崩壊のニュースは後々学ぶ過去のニュースだった。それでも流行していたトレンディードラマの影響は少なからず受けている。戦隊ヒーローものですら、その要素が詰め込まれていたのだから仕方がない。一人でバーに行き、タバコを吸いながら、バーボンをロックで飲む。もはや無意識レベルで吸収したカッコ良さの価値観であり、言い方を変えれば、それは洗脳と言っても過言ではなかった。拙い記憶しかない幼少期に得たカッコいいと思わせる姿と価値観は一生ものだ。
「マッカランのロックです」
 岸上は、オレの目の前に黄金色したマッカランの入ったグラスを差し出す。アイスピックで丁寧に削られた丸い氷が、グラスの中で存在を主張するように浮いている。
 美しい。少し遅れてチェイサーも置かれた。タバコとウイスキーの組み合わせは、禁煙ブームの中で時代遅れかもしれない。時代遅れで構わないと思ったのは、恐らく今の時代に心の底からカッコいいと思える大人像がなかったからだろう。
「相変わらずのラークかい?」
 岸上は感慨深く呟いた。
「はい。何度か浮気しましたが、結局これに戻ります」
 テーブルに置いたラークの箱を手に取り、若干の笑みを浮かべた。
「そういうものは大切にするといい。どんな時代でも試行錯誤を繰り返し、自分の価値観を見つけて信じることができる人間は逞しさを身に付けることができる」
 岸上は真っ直ぐ、オレのことを見て言う。なんだか頭の中を覗かれているようだった。誤魔化すようにグラスを傾け、マッカランを一口飲んだ。氷とグラスがぶつかる音を聞きながら。強いアルコールが、焼けるような刺激を喉や食道に残して身体の中に入ってくる。身体が熱くなるのを感じながら、ぼんやりと過去のことを思い返しそうになった。酒が無くても熱くなれるものに視野狭窄になっていた淡い記憶を。
 その時、重厚な扉が開く音を耳が拾う。このタイミングで誰かがやってくることを踏まえると、待ち人が来ないうちから過去の記憶に飛んではいけないという暗示だろう。半分ほど吸ったタバコを灰皿に押し付けて、二本目のラークに出を伸ばした。
「いつ以来でしたっけ?」
 別にこの質問に意味はなかった。ただ、何かを喋っていないといけない使命感のようなものに思考を委ねていた。
「記憶が曖昧ですが、二年前くらいの冬ですかね。確か大学時代の演劇仲間と一緒にいらっしゃいました」
 その返事で紀藤と一緒に来たことを思い出す。当事者ですら忘れていたことを岸上はしっかりと覚えていて、その記憶力には驚いた。同時に後悔の言葉を並べる情けない自分自身が蘇る。あの時のオレは人生において一、二を争うくらい無様だった。
「よく覚えていましたね。もう忘れていましたよ」
 平静を装って言葉を紡ぐ。
「接客業というのは、お客様の顔を覚えるのが非常に重要です。それに街の特性上、覚えておかないとマズい場面もありますから」
 岸上は柔和な笑顔を浮かべながら答えた。歌舞伎町という街の裏側を少しだけ垣間見た気がする。
「あれからどうしていましたか?」
 その質問には多くの意味が込められ、本質を炙り出すのには十分な程の破壊力があった。
「なんとか就職して、社会人に戻りました。それにその頃に支えてくれた彼女と同棲しています」
「そうですか。それは良かったです」
「ありがとうございます」
「しかし、もう辞めてしまったのですか?」
 岸上は全て覚えていることを確信する。岸上と亮廣に語った絵空事と紀藤に愚痴った劇団のこと。そして罪を懺悔したことを。
「才能がありませんでした。やっぱり凡人には越えられない壁ってのが、世の中には存在しているのだと痛感しました」
 煽るようにグラスのマッカランを飲み干す。喉が熱くなり、視界が揺れる。すぐにチェイサーを口に含んだと同時に目を瞑る。瞼の上に差す間接照明の光で真っ暗ではなかったけれど、世界が透けて見えることはなかった。何を期待していたのだろうか。頭の中で自嘲しながら、ゆっくりと瞼を開く。
「大丈夫ですか?」
「すみません。ちょっと色々と思い出してしまって」
「そうでしたか。私も少し踏み込んでしまったようですね。申し訳ありません。今日は、どなたと待ち合わせでしょうか?」
 速やかに岸上は話題を変えた。それだけオレの表情は絶望を体現していたのだろう。そのことに申し訳なさが芽生える。
「大学時代に知り合った友人です。初めてここに来た時に後から来た奴です」
 そう言った瞬間に、頭のスイッチが現在から過去へと切り替わる。もう止めることはできない。過去の回想は、オレの悪い癖だ。

 文責 朝比奈ケイスケ

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