ハイライト改訂版⑭

 大学のある駅から乗り換えを含めてニ十分の駅、その最寄り駅から徒歩十七分の場所にある築三十年のアパートの二階の角部屋が僕の住処。間取りはトイレと風呂が別々の1LDK。東京の学生が一人暮らしをするには広い部屋。現に基本的にリビングで過ごすことが圧倒的に多い。
 正確に言えば生活の拠点という意味だ。寝室はマスターにアドバイスを貰いながら自己流にアレンジした暗室になっている。贅沢な部屋の使い方ができる広さがあるのにもかかわらず、家賃は四万円で相場よりもかなり安い。事故物件などの理由がある訳ではなく、マスターの管理するアパートだからまけてもらっているというカラクリが安さの理由だった。
「それにしてもさ、リビングに生活感が溢れすぎてないか?」
 誠治は折り畳みタイプのテーブルに置かれたどんぶりの中から、氷をグラスに入れながら言った。確かに誠治が言うようにリビングは生活感に溢れている。ソファーベットには布団が敷いてあるし、ワックスや飲みかけの酒瓶、その他生活をする上で必要な生活雑貨が各所に置いてある。極めつけは専用の棚に縦置きしているアンカーのロードバイクだ。誠治に指摘されてから改めて見る赤いロードバイクは、生活感が溢れるでは収まりきらない存在感を醸し出していた。
「寝室を暗室にしてるからね。って何回説明すればいいんだよ」
 ベランダで半分以上灰になったタバコを吸いながら僕は答える。夕方まで降っていた雨は収まり、月明りで雲がくっきりと見える程度に回復しており、窓を全開にしても問題はなかった。
「一応な。女が来た時に困るぞ」
「来る予定はないから気にするなよ」
 室外機の上に置かれたガラス製の灰皿に吸っていたタバコを押しつけてから部屋に戻った。
 五限の『心理学的面接法』の講義を誠治と一緒に受けてから、まっすぐ僕の部屋へとやってきた。ジーターも誘ったが、今日はバイト、とあっさりと断られてしまい、結局二人飲みになった。翔平や美沙を呼ぶ案も浮かんだが、今回は誠治だけの方が色々と話せると思い、敢えて口にしなかった。
 三段に分かれたタイプのカラーボックスの上のデジタル時計は二十三時を少し過ぎた時間を示していた。時計の横には写真立てに収まっている数枚の写真が並んでおり、その全てが大学時時代に撮った写真だった。
 ざっくりとした計算でも四時間は酒を飲んでいた。ビールや酎ハイの空き缶が床に幾つも立っており、飲酒の量を明確計ることができた。二人飲みの前半は今日受けた企業の三次試験である集団面接について、そこかあら派生した現在の就職活動についての話題がメインだった。
 大人とは何か、という抽象的な質問に詰まってしまったことを伝えると、お前は考え過ぎなんだよ、と誠治は言った。
「美沙とかジーターから就活の現実は聞いてるけどさ、和樹みたいに考え込んでないぞ。どこか楽観的というか、質問の意図なんて考えず、質問についての自分の意見を言ってるんだ。それにどんな大人になるかとか大人とは何かなんて、哲学的な質問に答えはないし、面接官も大それた答えなんか求めてない。ただ単純にどんな大人になりたいのかを聞いてるんだ。平日は仕事を頑張って、休日には奥さんや子供と楽しくどこかに行くみたいなありきたりな理想論でいいんだよ。その感じだと、エントリーシートの設問にもいちいち頭を抱えてるんだろ?」
 全て見透かされていた。僕は返事に詰まった。ただ、社会人経験のある誠治には僕達の就職活動はどのように映っているのだろうか、と少しだけ気になった。
 誠治は中学校卒業と同時に社会の荒波に揉まれた経歴の持ち主だった。
「私立の高校に行くと金かかるし、高認受かれば大学に行けるから問題ないって思って、お前たちが高校生活を楽しんでいる間、仕事してたんだよ」
 大学一年生の時、クラス親睦会の帰り道に僕が誠治に「なんで公立の高校通わなかったの?」と聞いた時、誠治は何も言わなかった。
 十五歳から三年間、誠治がどんな仕事をして、金欠以外に見え隠れしている高校に通わなかった本当の理由について、それ以降踏み込めなかった。あの頃から誠治は同い年の僕なんかよりもずっと大人だった。大人の意味が分からなくても、その実感だけは確かに残っている。
「それじゃ、もう一回エントリーシート添削してやるよ。それと面接も」
 強引な形で始まった就職活動対策も一時間もしないうちにひと段落して、ようやく解放された。もう当分、エントリーシートは書きたくないし、面接も受けたくないと思うくらいダメ出しを受けるなんて夢にも思っていなかった。地獄の特訓のような時間を終えて、誠治は暗室になっている寝室の扉をぼんやりと見ながら訊いた。
「そういえば和樹、茜ちゃんとは進展あったか?」
「少しは近づいたとは思うけれど……どうだろう?」
 我ながら歯切れの悪い答えだ。そして僕は隠していたつもりのことをあっさり吐露していた。もう隠しても仕方がない気がしていた。特に誠治相手では。
「連絡はしてんだろ?」
「ここ最近は毎日何らかの形で連絡を取り合ってるよ」
 あの日――誠治たちが写真館で証明写真を撮った日――を境に、彼女との距離は縮まったと感じていた。LINEや電話の頻度も増えたし、毎日のようにやり取りを繰り返す日々が僕の日常に溶け込んでいた。僕は偽ることなく、現状を隠すことなく誠治に話した。
「思ったよりいい感じじゃん。次はデートにでも誘ってみろよ」
 そう言ってからウイスキーを口に含んだ誠治の顔は、まるで自分の事のように嬉しそうに笑っていた。要らぬ心配を掛けていると感じてしまい、具体的に行動を起こさないまま過ごしてしまっていることへの罪悪感が不意に僕の中で渦巻く。
「デートねぇ……。今となっては、なんかハードル高いな」
 飲みかけの缶チューハイを口に含んで天井を眺め、三年前の春のことを思い出していた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?