ハイライト改訂版㉛

 街を歩く多くの人が、マフラーや手袋を身に着けているようになった。本格的な冬の訪れへの準備で忙しなくなる時期、僕は毎年の恒例行事のイベントにより忙殺されかけていた。
 多くの写真館を支える日本古来の伝統行事である七五三という大きなイベントは、写真館にとっての繁忙期だ。ただでされ毎年忙しいのにも関わらず、今年はマスター指名の仕事も継続して受けていたから、例年にないほどの仕事で溢れ返っていた。
「明日までに終わりそうか?」
 パソコンを操作して写真編集をしていた僕の耳に、撮った写真をパソコンで眺めているマスターの高揚感と疲労感を六対四でブレンドした声が届く。
「大丈夫そうです」
「逞しい返事だ」
 時計の針は、もうすぐ二時半を示そうとしている。袴や着物姿の子供たちの写真に向き合って、気付けば七時間以上が経過していた。疲労はあるけれど、それよりも写真と向き合う時間が楽しくて仕方がなかった。初めてボールとバットを持って広場で野球をやる少年のように無垢な心境は久し振りで、懐かしさとワクワク感で溢れている。こんな風に向き合えるものを仕事にすることができれば、幸せという抽象的な表現も理解できるような気がした。
「それで、アレはどうなった?」
 マスターは僕の方を向くことなく、パソコン画面とにらめっこしながら質問をする。マスターが言っているアレとは、コンクールに提出する写真のことを指していることを瞬時に理解して、返事に困ってしまう。
 図書館の屋上でのやりとりを境に被写体も場所も、撮りたい写真も決まっていた。でも僕は最後の一手を打てないまま、風景写真ばかりを撮って過ごしていた。今は本番に向けての練習期間だ、と不恰好な言い訳を連ねながら。
「一応、被写体と場所は決めました」
「そこまで決めて撮ってないのか……。――最後の一手が打てないのか?」
「……はい」
 力ない僕の返事はマスターの一言を強く肯定している。なんで最後の一手を打てないのか、理由も分かっているのに一歩踏み出せない。葛西さんの時はできたのに、と深いため息がこぼれた。
「迷いも必要だけどな、和樹。でもな、時には迷ったままシャッターを切ることもやっておけよ。完璧な写真は綺麗だけど、迷って撮った写真にはカメラマンの心が映りこむ。時にはその迷いを写し出すことも重要だ。何に迷ったかが見える不完全な写真は、稀に完全な写真を飲み込むことがある。それはな、完全な物にはない魅力があるだよ。それにな和樹、お前はまだプロじゃないんだ。別に完璧にする必要性なんてのはないんだぞ。だからな、不完全なものでもいいから、写したいものを写し出そうとしろ。和樹の思いを込めた写真を撮ってみろよ」
 ハッとした。思わず声が出そうになる。
今までそんなことは考えたことはなかった。自分の好きなものについては、その時にできる最大限を示し完璧に仕上げなければいけないという固定観念や焦燥感のようなものが絶えず頭の中にはあった。そのせいで何度も行動を止めてしまった苦い記憶が一気に走馬灯のように蘇る。
 僕を守る理由、それは完璧じゃない物を提示する訳にはいかないという自己満足。不完全な僕を認めたくないわがまま。それで積み重なってしまった後悔は、更に僕を動かさなくなり、より一層完璧を求めてしまっていたのかもしれない。誠治は人間関係において僕は周りを気にすると言っていたが、コンクールなどに出す写真に対しては、人関係以上に周りの目を気にしていたのかもしれない。
 目から鱗が落ちる、なんて諺を身に染みて感じた。そして今まで積み重ねてきた後悔の理由を突きつけられた。
「まぁ、おっさんの戯言だと思って聞き流しておけ」
 マスターは再び無言で目の前のパソコン画面に向き合い、編集を始めた。僕も新たに話を切り出すこともなく、目の前に表示されている幸せそうに家族で収まる七五三の写真の明るさの調整を開始した。マウスを動かす音、クリックする音が二人だけの写真館に響く。その音はその後も鳴り続けた。
 宮野写真館を後にしたのは、太陽の光が申し訳なく顔を出していた明け方だった。眠気眼をこすりながら、ロードバイクに跨りペダルを回す。いつもうるさいはずなのにチェーンが動く音、ペダルを踏み込む時に聞こえる音が聞こえてしまうほど静かだった。あと一時間もすれば、多くのスーツ姿や制服姿の人達が駅へと向かい歩き出すのだろう。そんなこと思いながら、嵐の前の静けさみたいに車通りの少ない三車線道路を進んだ。
 始まったばかりとはいえ、季節は冬。吐く息は白くなり、道路を駆け抜けるだけで、冷たい風が容赦なく全身にぶつかる。無防備な顔や首元は寒さを通り越して痛みを覚える。ネックウォーマーくらいは持ってきておけば良かったと嘆いてしまう。しかし、ぺダルを回せば回すほど、身体の中は暖かくなり、眠気が覚めていく。ベッドに倒れ込んだら即座に眠れる疲労感を抱えているのにも関わらず、頭はどんどん冴えていく。考え事をするには丁度いい環境は、いとも簡単に思考の世界へ僕を誘う。
彼女の顔が浮かんだ時、夏の始まりまで頭を抱えていた就職活動のことが頭の中にチラついた。正確には彼女が悩んでいたエントリーシートの課題だ。
 自分自身を単語で五個答えなさい。
 不意に浮かんだ課題を何故か解こうとした。理由は分からないけれど、解かないといけない焦燥感が僕を掴んで逃さない。リズミカルに規則正しくペダルを回しながら、頭に浮かぶ単語を口に出していく。
 写真、カメラ、臆病者、ネガティブ……。誠治が言うには純粋も含まれるのだろうか。僕は、自分が純粋であるという実感を今でも持ち合わせていなかった。
 自分の中から絞り出していく言葉の多くは、生きていく上で邪魔になりそうな単語ばかりで思わず笑ってしまう。そんな僕でも大事だと思える友人やマスターがいて、更には魅力的な彼女にも出会えた。そう考えると、ぬるま湯に浸かっていてもそれなりに生きていける気がしてしまう。少し前の僕であれば、ぬるま湯に浸かっていることに気付かず、全て完璧な選択だと思い込み、疑うこともなくそのまま生きていただろう。それが感情の解放する機会ばかりを過ごしたことで、今ではぬるま湯にいる状況から抜け出さないという感情が僕を揮い立たせる。
 未完成だからこそ変わりゆくものがあり、変化にそれとなく順応していく大人になるということだと思った。でも自分の感情を押し殺してまで生きることに苦痛を感じるようになった僕は、当分の間、大人には成れない気がした。
 交差点の信号に捕まり、左足をセーフティフェンスに置いた。ポケットからスマートフォンを取り出して、メモアプリを起動させ、今の気持ちを文字に起こした。恥ずかしさが溢れた言葉を見つめ、ぼんやりと思ったことを口に出す。
「派手に転んでやろう」
 信号が三度目の青になる。青になっても動き出さない僕を追い抜くタクシーを見送ってから、ようやく左足をペダルに戻し、真っ直ぐな道を全速力で疾走し始める。呼吸が荒くなり、白くなる息を絶えず吐き出しながら、僅かばかりの変化の繰り返しをしている姿を思い返して、何かを求めてもがく姿を僕なりの俯瞰で見つめようと努めた。

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