ハイライト改訂版㉚

「で、オレを呼び出したのは?」
 ベランダの手すりにもたれかかった彼は呟く。過去の回想を漠然と自分の世界に浸っていた僕を現実に引き戻す。
「あっ、葛西さんの噂を聞いて……確認しようと思いまして」
 精一杯の勇気を出して言葉を口にする。しかし彼は口から吐き出す煙で輪っかを作り眺めている。まるで僕の言葉など全く聞こえていないと言っているかのような仕草だ。僕の質問を誤魔化して、煙に撒くつもりだろうか。追撃の一手を考えていると、不意に彼は僕に正対する。
「オレの噂で呼び出すってことは、あんまり良い噂じゃないな?」
 とぼけているのか、初耳なのか、判断の付かない表情と声色で彼は尋ねる。手を伸ばせば簡単に手が届いてしまう距離感。彼女の時とは異なる緊張感を抱きながら、黙って頷いた。
「和樹の耳に届くってことは、楠木か……。アイツは本当に情報が早いな」
 噂の内容を把握して、認めていると言わんばかりの口ぶりに戸惑った。次の瞬間には怒りが込み上げ、血液を沸騰させるような名前の知らない未知の感情が生まれていた。正の感情に乏しい僕だが、悪しき感情と呼べるである負の感情――怒りや嫉妬などといった――にはひどく敏感だった。
「真実はどうなんですか?」
 核心に触れようとする感情が先走って、普段の声よりも上ずってしまう。この時にはもう冷静な判断力というものを失っていたのかもしれない。
「真実ねぇ……。噂の内容が分からないから何とも言えないけど……もしあ」
「不倫の件です。相手は平野茜。僕の知っているのは、これだけです」
 彼が話すのを遮り、僕は知っていることを告げた。我ながらハッキリと怒りを示した声を出したと思う。凄みはなくても僕の感情を伝えるには充分過ぎるくらいに理性よりも感情が勝っている自分の声ではないような声だった。
「あぁ、それね。不倫なんてそんな大層なもんじゃないよ。ただ、アイツが弱ってたからさ、たまに飯に行って慰めて、成り行きで何度か抱いただけの話。それが不倫とかになっちまうなら、オレは不倫をしたんだろうな。最近になって元気になったのか知らないけど、連絡してこなくなったけどな。まぁオレからすれば、いいように使われるし、こんな噂話にもなっちまうし、迷惑な話だけどな」
 予想外な言葉に耳を疑い、彼の言葉を一語一句間違えずに何度も反芻して咀嚼を繰り返した。何度繰り返しても、彼の言葉には否定などなく、それどころか罪悪感すら持ち合わせていなかった。むしろ自分の行為を肯定し、彼女のことを迷惑扱いした言葉に僕の中で何かが切れた。
 気付けば、僕の両手は彼の胸ぐらを掴んでいた。
「何してんすか? 葛西さん」
 自分の中にある怒りを自分以外の人間に向けたのは生まれて初めてだった。感情が爆発してもはや収拾がつかない僕は、死球に対して情動に任せて暴れる気性の荒い助っ人外国人のようだった。
「どうした、急に?」
 涼しい顔をして、現状を掴み切れていないという猿芝居をする彼の顔に無性に腹が立った。こうなることは分かっていただろ? 僕が彼女のことが好きだということを彼は知っているし、それどころか親身に相談に乗ってくれていたはずなのに……。
「ふざけんなよ、おい。噂が本当だろうが嘘だろうが、僕には関係のない。本当なら少しの間でも彼女を支えてくれたことに感謝するくらいの気持ちはあった。嘘なら疑ったことを素直に謝罪しようと思ってた。でも、なんだその態度は? 迷惑な話だ? あんた何様だよ。彼女から事を起こしたとしても、彼女はあんたの都合のいい人形じゃないんだよ。抱いたなら相応の覚悟を持って接しろよ。ガキの火遊びみたいに言ってんじゃねぇ。人の気持ちを弄ぶようなことしてんじゃねぇよ」
 重厚な箱に押し込んで厳重に鍵をして鎖で巻きつけて、外に出すことのなかった本当の感情を容赦なくぶつける。壊れてしまってもいい、と本気で抱き、狂ったように声を荒げていた。まるで僕が僕じゃないと感じる乖離の仕方は、自分の中に押し込んでいたものが長年の間蓄積されていたことを意味するのかもしれない。
 この扱いに困る化け物を誠治は全てを見抜いていた。そして、僕の心の奥に入り込むように話をして煽れば、こういう展開になることも計算のうちだろう。ならば、感情が暴走して仮にボロボロになっても手を差し伸べてくれる。その安堵感がアクセルとなり、理性というブレーキは使い物にならなくなっていく。
「和樹、少し冷静になれよ……。あっ、そうか、思い出した。――だからか」
 僕が壊れるくらいに怒鳴っていたのにもかかわらず、彼は極めて冷静に状況を把握しようと努めていた。過去を思い出した彼の顔は次第に綻んでいく。その顔が憎たらしい。
「……」
 言葉ではなく目で訴えた。彼と目線がぶつかる。表情は柔和なのにも関わらず、目は笑っていないことに気付いた時に、両手を叩かれた。
「それは八つ当たりだ」
 彼は強めの口調で言った。確かに八つ当たりだ。自分で何もできずに、社会規範からズレた行動を取った恩人に対して、彼女を理由にして自分の不甲斐なさから生じる怒りを闇雲にぶつけているだけ。分かっている、だからこの手段は選びたくなかった。でも彼女のことを傷つける人間に対してなら話は別だ。この選択に何一つ悔やむことはなかった。
「悔いのない人生は後悔の繰り返し。和樹、少しくらいやってみたかったと思うことをやって後悔をしておけよ」
 いつかジーターがザ・ハイロウズの言葉を引用して言ってくれた言葉が、不意に蘇ってきた。人生最大の後悔に繋がるかもしれない行動を情動によって起こしている。この記憶は、不恰好で何もできなかった僕の人生において、強く、鮮明に残るだろう。
「八つ当たりで何が悪い」
 普段使うことのない僕の怒号が響き渡った。廊下から聞こえる幾つかの足音を察知できる余裕が、いつの間にか生まれていた。涙と同じで怒りも吐き出したら清算できる側面があるのだろう。その分、背負う荷物が多すぎるけれども。
「別に葛西さんの行為自体は否定しません。何度も言いますけど、アンタの不用意過ぎる行為でも弱っていた彼女は救われていました。だから、そのことに関してだけは、友人として感謝しています。ただ、さっきみたいに迷惑とかほざくのであれば、僕はアナタを許しません」
「お前、何様なんだよ、さっきから。お前はアイツの何なんだよ?」
 緩んだはずの表情が硬く強張り始めていた彼は訊いた。
「彼女の片思い代表だ、バカヤロー」
 僕は両手で彼を突き飛ばした。身体をよろめかせた彼を横目に、僕は研究室の入口へと向かい歩き出す。
「おい、水野」
 僕を呼ぶ声に、思わず振り返った。
ガシャン、という音を聞いた次の瞬間、僕は倒れ込んで天井を見上げることになった。少し経ってから、殴られたことを把握した。頬に痛みがある。床に目を向けると、机に置かれた書類が散乱していた。殴られる理由なんてどこにもなかったのに、と嘆くと、僕を見下すように彼は立っていた。
「別に殴る必要性は無かったけど、やられっぱなしだと腹が立つから一発殴らせてもらったよ。――不用意なことして悪かった」
 葛西さんはそう言い残して、僕よりも先に研究室を後にする。その後ろ姿を倒れ込んだまま見送った。今の僕の姿は情けなくなるほどカッコ悪かった。ただ、すがすがしさが僕の胸の中にはあった。
 部屋の主である教授や僕の怒号を聞いた野次馬の視線が、扉の向こうから倒れ込んでいる僕へと注がれていた。カッコ悪い醜態を晒していたけれど、今はどうでもよかった。


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