成人の日。

今日は成人の日。
去年或いは今年の3月までに
二十歳になる世代は
地域のホールや体育館に集められ
大規模な同窓会を行ない
夜には飲み屋で騒ぐことが
認められているような日だ。
学生が多く住むアパートの一角にある
僕の部屋は、いつにも増して静かだ。
みな、地元にでも戻っているのだろう。
静かな夜は貴重で、素晴らしい。
今年も逮捕者が出たニュースもあるようで
新成人のバイタリティーが
少しばかり羨ましいと思ったり。
「はれのひ」騒動が一年前で
キンコン西野さんがリベンジ企画を
実施したのも一年も前の話だ。
なんだか時が経つのも早く感じるのは
それだけ歳を重ねて、大人になったという
証明になるのだろうか。少し考えてしまう。
僕の成人式を迎えたのは十年前くらいか。
中学の同級生で草野球チームを
結成していた初年度でもあり
多くは頻繁に顔を合わせていたから
正直言って、新鮮味はなかった。
あの日は色々なことがあって
誰かの為に何かをすることへの弊害を
実感したことは今でも覚えている。
でも全然関係のない場所で
僕の物語が動き出すなんて
本当に予想していなくて。
泥にまみれた時間に差し込む
一筋の光だった。
この時期になると思い出すのは
一種の条件反射というか
紐づけされたことへの副作用。
顔も声も覚えていないけれど
ちょっとばかりの間
僕に青春を感じさせてくれたことは
心の底から感謝している。
偽りのない純粋な本音だ。

「恋愛」という概念を半ば放り投げたのは
いつからだったからだろうか。
「世話を焼くイメージが湧かない」
そんなような旨を含んだことを
友人から聞いた時、ハッとした。
集団においては、それなりに世話を焼く側の
人間ではあるのだけれども
母数が小さくなるにつれて
その配慮というか気を使わなくなっていく
自分中心の傾向が確かに存在していて。
それは母数が減るにつれて
自分の意志が顔を出すからだろう。
僕にとって、どこかに行くことや
大人数で賑やかに過ごすことよりも
コーヒーなんて飲みながら
ゆっくりと流れる時間に身を任せて
どうでもいいような話をする時間の方が
有意義に感じているからだ。
外から見える赤い炎には憧れるけれど
僕の本質は静かに燃える青い炎であり
あまり外に出すことはないからでもある。
(できもしない文学的な表現を試みてるんだか)
野球観戦とかでもよくあるけれど
あまり感情、正確には喜怒哀楽の
喜と楽の部分が表に出ない。
(怒哀はめっちゃ出てしまいますが)
自分をよく見せようとしているのか
感情の出し方を知らないだけなのかは
答えは出ていないけれども
この辺りに収まるように感じている。
大方の原因は、人のことを気にして
人や集団に沿うような仮面を被っている節と共に
人に対しての拒否感と不安感が入り混じった
役にも立たない感情が染めていくからだ。
あと隠している自己中心の性格を
晒すことに対しての恐怖もある。
仲の良い友人との会話では
平気で毒を吐くし、しょうもないボケも
連発するような感じなのに
いざ距離のある人間に対すると
借りてきた猫みたいになる内弁慶。
こんなことを悩みに変換して相談すると
自信がないとか言われるけれども
確かにそうなんだけれども
ただ、自信がないというよりかは
自分で無意識で決めた仮面を
守り続けているだけという方が
しっくりくるから救えない。
守りに重心を置いたスタイルじゃ
何も変わらないことを
もっと早く知っていればと後悔する。
言い訳を紡げばいくらでも出るけど
変わり方を知らなかったし
変わらなくても恵まれている環境の
印象が強くあるからなのかもしれない。
この感じだったから今の環境がある。
多分、今に満足しているのだろう。
ただ、最近様子が変わりつつある。
独りで過ごすことに楽しみを抱き始めたと
同時に不意にやってくる孤独感が
胸の柔い部分を鋭利な刃物で
切り付けることも増えた。
独りでいることへの覚悟の欠如と
多分、本心は寂しいのだ。
寂しいと感じるのであれば
寂しくならない方法を探せばいいのに。
心と行動がバグ状態の
チグハグな感覚を抱いて思う。
人の心とは、なんとも厄介だ。


あぁ、恋して―。

なんて書いてみたけど
これが本心か勢いか判断できない僕は
きっとまた迷路に迷い込む。
それも今まで以上に難解な迷路に。

文責 朝比奈ケイスケ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?