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シンデレラ

「ゴメン、待ったよね」
 駅の騒がしさに紛れて消えていく謝罪の言葉。でも待ち人は、心配そうな表情から安堵感に変わっていく。その表情の変化を見ていると、申し訳なさが普段よりも重くなっていくのを感じる。
「仕事でしょ? 美加がやりたくて頑張っているだから気にすることはないよ。でもね、無理だけはしないでね。辛そうな表情はあんまり見たくないな」
 そう言った彼は静かに歩き出す。クサイ言葉を口にすると恥ずかしいのか、その場から離れようとする。そんな後ろ姿を何度も見てきた。頼りないけど、優しい背中。
 私も倣うように歩き出す。そして後方から彼の無防備な左手を掴むように右手を伸ばす。抵抗しない彼は優しく私の左手を包み込む。付き合ってから変わらない習慣だ。けれど、最近は妙な違和感を抱いている。やけに冷たいのだ、彼の手が。
「今日はどうしようか?」
 彼は人波をうまく避けて歩きながら問いかける。昔取った杵柄なのか、サッカーに青春を捧げたスキルがあらわになる。あと最終的な決定権を誰かに預けるプレースタイルも未だに健在だ。突破できるのに、決められない元ストライカーと高校時代の仲間に言われ続けることを彼は恥じるけど、実際は決めるところは決めているというのがマネージャー目線の私の意見だった。県大会の準々決勝も勝負所で決めている。後半終了残り僅かに決めたゴール。ボールがネットを揺らしたと同時に鳴った笛の音は、その後の劇的というかドーハの悲劇くらいの残忍な結末でみんなの記憶が改ざんされているけれども。
「ドライブ行きたいな」
 私の要望を了承したように頷く彼。駅から駐車場まで15分。冬の夜風が顔や手など露出した部分に当たる。冷たい、だから冬は苦手だ。私は空いていた左手で首元のマフラーを上げて、鼻の辺りまで覆う。そして左手をセーターの裾で可能な限り隠した。彼は特段、防寒する様子はない。スーツの上に着たダウンジャケットだけだ。それでも平然とした表情を浮かべている。寒さへの耐久性が羨ましく見えた。歩きながら今日一日で起きた出来事を機関銃のように話し続ける。マスクとマフラー越しだから音量を上げることも忘れない。早く春、いや夏が来ればいいのにと思った。
 彼の運転する軽自動車は綺麗に掃除されており、運転も上手だ。カーステレオから流れるラジオは地元FM番組。古い曲かあら最新曲まで予想できない音楽、時よりDJの小気味よい話術が車内に流れる。今日のテーマは「初めて」だった。リスナーからのメールは、淡い恋の話から、新しい趣味を始めた話まで多岐に渡る。色々な初めてを聞くのは新鮮で、頭の中で自分の初めてを抽出していく。バラ色の回顧なのか、どの記憶も鮮やかな色彩が脳内編集で加えられている。
「初めてって緊張するよな」
 彼はポツリとつぶやく。
「緊張するね。何を思い出してたの?」
「仕事のこととか、あと美加とのこととか」
 聞いているこっちが恥ずかしくなるようなことをノーモーションで、呼吸をするように平然とした口調で彼は言う。誰かに気にされていること、大事にされていることが私にとってはかなり重要だったからこそ、彼の何気ない言葉は嬉しい。
「私とのこと、思い出してたの?」
 意地悪だなと自覚しながらも懐かしい話をしたくて、敢えて口にする言葉。本当なら声を二トーンくらい上げたい気持ちだけど、恥ずかしいから自嘲する。照れ隠し、彼なら分かってくれているだろうな。
「うん。美加のことを思い出してた。付き合ってオレら長いじゃん。色々なことがあったけど、初めてに対して焦点を合わせることって少ないし、何より大枠で言えば初めてのことも少なくなってるだろ?」
「大枠って? どういうこと?」
「例えば、二人でどこかに行くってのも学生時代は初めて場所が多かったけど、今は結構さ落ち着いてるだろう? 去年は色々あって旅行にも行けなかったし、行動も制限されてたし。手を繋いだりすることも当たり前になってるし」
 彼の言おうとしていることには心当たりはある。確かに行動が制限された去年、私たちの初めてはかなり減った。少し前から同棲していることもあって、同じ空間で抱く相違点についての喧嘩もやり終えた部分はある。手を繋ぐことについても彼の言う通り、当たり前になっているし、それこそ抱き合っていることもあるのだから、その先で初めてを探す方が難しいのかもしれない。
「そうだね。去年は家にいることが多かったもんね」
「うん。それに自惚れだけど、美加のことで知らないことよりも知っていることの方が多い気がするしな」
「自惚れじゃないよ。こーちゃんは、私のこと私よりも知ってるよ」
「そうか? オレ鈍感だからな」
 マスク越しで分からない彼の表情を見ながら、彼は何を話そうとしているのかを無粋だと理解しながら予想する。彼は静かに私との初めての話を喋り始めた。優しい運転の中で彼と話していると心が安らいでいくのを感じていた。まるでお腹の中にいる胎児の気分を味わっているようだった。
 国道一号線から高速に乗り、辿り着いたのは横浜みなとみらいだった。初めてデートした場所であり、告白を受けた場所だ。きっとラジオに影響されたのだろうなと思いながら、車を降りた。
「少し歩こうか。時間があまりないけど」
 彼は時計を見て言った。今は19時半を少し回った頃、緊急事態宣言の影響を踏まえれば残り時間は30分を切っている。律儀だな、なんて思ったけれど、気分はシンデレラだ。普段とさして変わらないドライブデートだったけれど、一個条件が乗っているだけで気持ちに変化が生じるのは発見だった。
 高いビル、オシャレな建造物、車と声に紛れてかすかに聞こえる波の音。光に誘われるように歩いていく。街は思ったよりも多くて、手を繋ぐカップルやスーツ姿の男性、オシャレなファッションの女性とすれ違った。その全員がマスクをしていることを除いて、変わらないみなとみらいだった。
 私たちは、ずっと思い出話を口にしていた。初めてのデートは正直に言えば散々だったけれど、彼らしさは全開だった。でも忘れられない記憶、抱きしめたくなるほど大事な愛おしい時間だ。
「今更だけど、あのデートひどかったよな」
 ぽつりと彼が言った。
「ひどかったというか、こーちゃんらしさ全開だったね」
「オレらしさって。覚悟決めてたから、空回りしてたよな」
 恥ずかしそうに笑う。私も釣られて笑った。こういうありふれた出来事の積み重ねが、実は幸せなんだろうな。
「あの状態からの告白は、なかなかすごいと思ったよ」
 本音を吐露する。日本丸が停留しているテッパンのデートコースにある芝生に座って観覧車を見つめながら告白されるのかもしれないと、彼の余裕のない横顔を見ていた記憶を想起する。彼も思い出しているのだろうか、近くの自動販売機に向かった。あの時、買ったココアとコーヒーを購入して、ココアを私に渡す。ペットボトルから伝わる温かさで悴んでいた手が生気を取り戻していく。
 私たちは誘導されるように告白の場所へと足を進めた。対岸で輝く観覧車はいつ見ても綺麗で、心が奪われそうになる。そして円の中心に設置された時計が19時50分を示しているのが目に入った。
「久し振りだから、座って観覧車見ない?」
 懐かしさに引っ張られて、私は無意識で彼を誘っていた。彼は静かに頷く。結構寒かったけれど、初めてを再体験したい欲求が口を動かしていた。
 人の少ない場所を選んで、私たちは芝生に腰かけた。観覧車の見える一等席だ。座ってすぐに私は彼の左肩に頭を預けた。こうして外で甘えるのは、本当に久し振りだった。傍から見ればイタイかもしれないけれど、そんなことはどうでもよかった。今は、彼と一緒にいる二人だけの世界を味わいたかった。
 観覧車は時刻を刻むように柱の照明が消えたり、光ったりしている。年甲斐もないけど、この時の私はキスがしたくなっていた。あの頃を模倣するように。あと数分もすれば20時。区切りの時間に始まるイルミネーションがあることを思い出した。彼の言っていた時間がないというのは、このことも含まれているのかもしれない。私はマフラーをずらして、マスクを外してから言った。
「ねぇ」
 私が声を掛けると同時に彼は言った。
「タバコ吸ってもいい?」
 ロマンチックな状況に水を差すようなセリフだ。でも私は頷いた。だって彼がタバコを吸って何かを思索している横顔が一番好きだったから。彼はマスクを外す。そしてポケットからセブンスターの箱を取り出して、一本タバコを抜き取ってくわえた。流れるような行動、不覚にも見惚れてしまった。でも一向に火を点けない。私は彼の様子を伺う。どうやらライターを忘れたみたいだ。私があげたジッポライターを。
「ジッポ、忘れたの?」
「あれ、持ってきたはずなんだけどな」
 彼は両手であらゆるポケットを触っている。その姿は、なんだか滑稽だ。
「こういう時は灯台下暗し。ダウンのポケットに入ってるんじゃない?」
 そういって私は右手を彼のダウンジャケットの外ポケットに突っ込んだ。人差し指が触れる立体の箱。タバコの箱にしては固かった。なんだか気になってしまって、思わず箱をポケットから取り出した。見たことのない箱だった。
「これなに?」
 状況が整理できない状態を解消するために、箱を持った右手を彼の顔の前に差し出す。すると彼は苦笑した表情を浮かべて、そして笑った。
「美加へのプレゼント」
 急に彼は私を正面から見据える。急に見た彼の顔、見覚えがあった。
「結婚してほしい」
 ようやく箱の正体が指輪の箱だと気付いた。そして彼の手が冷たかったのは緊張のせいだったことも。
「はい」
 私は何も考えずに返事をした。決められないストライカーらしくない彼の所作。あの頃から私たちは大人になったんだと自覚的になる。同時に目頭が熱くなっていることに気付く。
 まったく、決められないストライカーじゃないよ、こーちゃんは。
 決めるところはしっかり決めるエースストライカーだよ。
「私からお願いがあるの」
 キスしよう。その言葉の枕詞を言おうとすると彼は安堵した顔を浮かべてから、くわえていたタバコを右手で掴んでからキスをした。
 ホント、私のことをよく分かってらっしゃる。
 彼と唇を交わした瞬間、私たちの初体験を祝福するように観覧車のイルミネーションが鮮やかに輝き始め、幾つもの光が私たちを照らす。
 涙でいつになく幻想的な光を忘れることは無いんだろうなと思いながら、私はゆっくりと目を瞑った。

文責 朝比奈ケイスケ

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