記憶装置。

久し振りに見た写真に僕はいない。
当たり前だ、シャッターを切ったのは
誰でもない僕なのだから。
そして、実感する。
シャッターを押す瞬間
僕は写真を撮るという行為と共に
記憶装置としての役割として
存在を保持していたということを。

noteで連載していた青春小説
「ハイライト」の主人公のように
僕は常に誰かの姿を切り取ってきた。
それは自分に自信が無くて
椅子取りゲームの要領で
自分の居場所みたいなものを探し続けた
結果みたいなもんだと今になっては笑える展開だ。
周りにいた人がそんなことを気にしているかなんて
僕は知らないし、今更確認しようなんて
しょうもないことをするつもりはない。
ただ、その経験が将来記憶装置としての
役割を果たすなんて、因果なもんだなとは思う。
記憶力というか出来事への執着が
強いのだろうと判断する反面で
昔から「物語」という事柄への憧れがあって
いつか使えるかもしれないという
強迫観念に似たものを持っているのかもしれない。
だからこそ写真という証明書が無くても
だいたいの出来事は思い出せたりする。
加えて今となっては負の遺産として廃墟と化した
高校時代くらいから利用していたブログの存在も
大きな影響を与えるのかもしれない。
なんてね、友人と思い出話をしてたら
そんなことをぼんやりと感じたんだよね。

僕には記憶や感情を互いにバックアップしている
付き合いの長い友人がいる。
気持ち悪いもんで、相談をされたりすると
思考回路の変貌を確認し続けてきたから
積み重ねてきた会話の中で理性よりも感情が
反応するということが多い。
正直言えば、彼のやりたいことなどを
深く言語化することは難題なんだけれども
彼らしいか否かの判断については
言語化することよりも容易かったりする。
なんだかAIの学習機能の基本概念に
触れた気がするのは、少し飛躍しすぎだろうか。
そんな彼は思い出話をするよりかも「今」を重視して
「今、やりたいこと」などに目を向けるような
前衛的な人間なんだけれども、ふとした拍子に
思い出話をする展開になって、共有の思い出話に
花を咲かせた昨日の夜は少し新鮮だった。
不思議なもので、中学からの腐れ縁なのに
登場してくる舞台は大学以降のことばかり。
恐らく、共有した時間の中で密度の濃い
時間だったのだろうなと実感する。
勿論、原風景は記憶に深く刻まれていて
地元にある橋で、夜な夜な飲み物を片手に
(中学の頃の僕はコーヒー牛乳だったけれど)
夢や希望、将来、音楽、小説、恋に悩みと
色々な話を交わしてきた記憶は鮮明だ。
ただ、話のお供として手に持つ飲み物が
コーヒーや酒に変わっていき
タバコなんて吸い始めるようになったからは
現実の問題に対してガキの頃描いた絵空事を
書き続けていくかという具体的な話に変わっていく。
大人の皮を被った子供、まさにピーターパンだ。

長い余談でしたが、昨日の夜に
不純物を排除した純粋な思い出の断片を
メインに据えた話は単純に懐かしくて、
面白くて、笑った。久し振りに心から。
そういえば、あの頃、僕の生活拠点は東京だった。
個人的には東京という街には忘れられない思い出が
たくさん散らばっている。特に新宿・高田馬場には。
でも同じくらい立川という場所にも思い出はある。
大学時代という時間で捉えれば
決して多く時間を費やした場所ではないし
無論、住んでいた街でもない。
でも今、住んでいる街よりも長い間住んでいたと
勘違いしてしまうくらいの密度がある。
他のも幾つもの場所に落ちているから
不意にその街を訪れたりすると
記憶は即座に蘇ってくる。
良い記憶も悪い記憶も。そして登場人物も。
忘れない場所、記憶、人がいることは
人生において大事なことであり
それを幸せと定義することもできるだろう。
でも何事も表裏一体であるのであれば
即座に蘇る記憶は、過去にすがる結果であり
前進していないのでは、と不安になる。
取り残されている実感は物理的な触感みたいに
両手で感じることばかりだ。
自分で揶揄する姿は、過去の亡霊。
思い出の内容にばかり目が行くけれど
あの頃とは違う場所にいる。
捨てられないものを両手に持って。
だから、思うんだ。
多分、僕は前に進んでいると。

文責 朝比奈ケイスケ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?