ハイライト改訂版⑱

 梅雨が明けた。夏らしい晴れ渡った青空が広がる日々が続いている。猛暑日続きで、身体が悲鳴を上げ始めていたが僕の日常は変わりなかった。
午前中に受けた企業面接を終えた僕は、木々が夏の眩しい日差しを僅かに遮る日陰の公園のベンチに座っていた。ぼんやり周りを眺めていると色々な人、建物、生き物などが嫌でも目に入ってくる。
 今日も禁煙指定の公園にも関わらずクシャクシャになったタバコを吸っているホームレスらしき人物やサボっているのか、休憩中なのか、判断が難しいワイシャツ姿の中年男性がスマートフォンを見つめている。遠くの方では同世代くらいの男女の騒ぎ声が、名前も知らない鳥の鳴き声と共に聞こえてきて、漠然と両手の親指と人差し指で長方形の枠を作り覗き込む。
 ふと、顔を上げれば青い空が広がり、東京らしいビルたちが姿を現す。その中で一際存在感を主張しているのは、東京の心臓部、東京都庁だった。後姿だとはいえ、その佇まいは圧倒的で、いかにも都会を象徴している。
 この建物が東京の姿だとすれば、僕が住んでいる場所は東京と名乗ってはいけない。色眼鏡を付けた印象を抱く。井の中の蛙大海を知らず。その諺が、東京に住んで四年目なのに僕には相応しいのかもしれない。おかしな話だ。
公園に来る前に購入したトールサイズのカップに入った飲みかけのアイスコーヒーを口に含んだ。氷が溶け出してしまっているコーヒーは、想像以上に薄かった。まるで僕のことを示しているようだった。
 ようやく着慣れたと感じられるようになったスーツの上着から振動音が聞こえ、身体を刺激する。条件反射で上着のポケットをまさぐり、震えの正体を掴む。スマートフォンを取り出して、プログラミングされたシステムのように、ロックナンバーを打ち込み、振動音の理由を探した。
 一通のメール、それもキャリアメールが届いていた。誰が見ている訳でもないのに自然と背筋が伸び、就職活動の面接を受けている時のような姿勢を作ってしまう。心底、肩肘張るのはコリゴリだと思っているのに、無意識で動き出す自分の身体は就活生と呼ばれる誰が呼び始めたか定かではないカテゴリーの色に染まっていることを実感してしまう。就職活動病と揶揄できそうな心的な病に侵されている錯覚が脳内を支配する。
 ため息をついてからメール画面を開いた。ビズネス文書と呼ばれる学生に送るには、固過ぎると感じてしまう文章を見つめる。その文章の中に刻まれている一文を探すために。不思議なもので、その一文は他の文字よりも大きく、そして太文字で書かれているように見える。実際はそんなことはないにも関わらず。
『今後一層のご活躍をお祈り致します』
 もう何社から活躍を祈られているのだろうか。こんなにも祈られていたら、内定の一つや二つ貰えてもいいものだとは思うし、全国にある会社の期待に応えられる能力でも持ち合わせているような感覚に陥ってしまう。
 ただそれはテンプレートされた文章で、そこには祈りの『い』の字も込められていない。分かっていても、企業分析やらエントリーシート、履歴書に費やしてきた莫大な時間をたった一通のメール、温かみのないパソコンで打ち込まれた文章だけで処理されてしまうのは気分が悪い。手書きの文字、それも女の子特有の可愛らしい丸文字で書かれていれば今みたいに落ち込まないでいられるのに。
 そんな生産性のないことを考えながら、もう一度メールを読み直し、自分の名前を確認した。何かの手違いでお祈りメールが届いてしまったのではないか、というクラスのマドンナ的な女子生徒に告白されるような淡くて有り得ない期待を頭の片隅に置きながら、そして現実は甘くないということを重々承知しながら。
やはりメールの文章には僕の名前がしっかりと刻まれていた。
「これで何社目だよ」
 小言を呟き、就活用のビジネスバックから手帳を取り出し、現状の就活状況を確認する。
 一、二次試験結果待ちの企業が一件ずつ、三次試験の面接待ちの企業が一件。採用試験の日程待ちをしている企業が八件。それ以外、何も残っていない。別のページには、就職試験に参加した企業名が並び、その全てにボールペンで線を引いている。今まで落ちた企業だ。そして今さっきお祈りメールを送ってきた企業にも同じようにボールペンで線を引いた。これで十八本目の線だ。
 成果が出ていないとはいえ、思ったよりも就活に尽力していることに驚いた。これが社会の現実であるとすれば、僕はという人間は無能な人間であるという烙印を何度も押され続けている。全身が重たくなる感覚が、静かに、それでいて確かに、身体を駆け巡っていった。 
 泣きそうな気分だ。思わず地面を見つめた。舗装された通路の先には何本もの木々が誇り高く地面に根を張り、真っ直ぐ空へと向かい伸びていた。木々の根元には草花が生え、景色をより映えさせている。なんだか来年の春、上を向いて歩けるのかという漠然とした不安に押しつぶされそうになる。
 左手に持っていたスマートフォンが震えた。着信を知らせ、ディスプレイにはマスターの名前が表示されている。緑色の通話ボタンをタップした。
「もしもし、どうしました?」
「おう、今日は就活じゃなかったのか?」
 マスターは電話を掛けておきながら、思わぬことを投げかけてきた。今の僕の様子を見られているのではないかと感覚に陥り、苦笑いをしてしまう。
「さっき終わって、近くの公園で休んでます」
「じゃあ、店の手伝いを頼んでいいか?」
「今日も忙しいんですか?」
 誠治たちの写真を撮ってから二か月くらいが経過していた。翔平、ジーター、美沙は希望の企業の内定を獲得し、浮かれたように遊びほうけている。誠治は公務員試験に合格し、彼女は宣言通り、大企業の内定を幾つも獲得していた。二人は翔平たちとは異なり、今も就職活動時のように勤勉に過ごしている。過ごし方はどうであれ、五人は社会の競争から良き形で解放され、自由に過ごしていることには変わりはなかった。
 そんな五人の共通点は僕が撮った証明写真だった。それが大学内で密かに噂になっていた。冷静な判断力があれば、内定を取れずに僕のように社会の中で漂っているような幽霊になるはずのない五人であることは容易に分かる。ただ不安に煽られ、この先の未来が暗闇であると思い込んでしまう就職活動生にとって見れば、五人の共通点である証明写真は藁をもすがる思い、蜘蛛の糸に感じるのかもしれない。使える物は何でも使いたい、と考えるのは、いつかのロッテのように負け続けている僕にはよく分かる。
 更に店長が元実力派有名プロカメラマンという事実も一つ大きな因子だった。ダメ押しになったのは五人の噂を聞いて証明写真を撮った学生が次々と内定を獲得したことだった。これでもかとプラス因子が乗っかった宮瀬写真館には就職活動に行き詰った学生たちが例年以上に足を運び始めていた。
「今からだと、一時間くらいで行けると思います」
 電話を切ってからすぐに立ち上がり、足早に駅へと向かった。
宮野写真館で五人の証明写真を撮った張本人は未だ真っ暗なトンネルを走っているのに、と毒づきながら。
 マスターが呼び出した割に客は多くなかった。それでも普段の宮野写真館と比べれば盛況であるには変わりない。スーツの上着を脱ぎ、ワイシャツの袖を捲ってからマスターのアシスタントとして動き回った。リクルートスーツを着た学生の真剣な表情を切り取り続けるマスターの表情は、プロそのものだった。感情が訴えかける。マスターのように、好きなことに迷わず飛び込んでいける大人になりたい。
 三人目の学生の写真を撮り終え、次の学生が写真室に入室する僅かな時間にマスターはおもむろに言葉を発した。普段はカメラを持つと写真に関することしか話さない職人気質さがマスターにはあって、僕は驚いた。
「なぁ、和樹。写真って面白いだろ?」
 全く予期せぬ言葉だった。理性よりも感情が言葉を選択する。
「面白いです」
 三塁ランナーが塁を蹴ったのを見て、何も考えずにホームへと遠投する外野手のような反応。口にしないと決め込んでいた本音が、確かに僕の胸の中で溢れ出した。
 マスターは僕の返事を聞き、表情を見てから頷いた。
「次の客、お前が撮れ」
 僕の身体は一瞬にして硬直し、次第に身体が震え始める。緊張なのか、恐怖なのか、あるいは興奮なのか。正体は分からなかったが、二つ返事でマスターに意思を伝えた。誠治たちを撮った時に抱いた感覚とは別種類の感覚に出会い、躍起になっている。なんだか自分が自分ではないようにすら思えた。
「その純粋さを忘れるな」
 マスターはそう言い残して、次の学生を写真室に呼び入れた。
 僕はカメラの前に立ち、緑色のバックグラウンドを睨みながら覚悟を決めた。
 ちゃんと勝負してみよう。
 そんなことを考えているうちに、僕の中で知らぬ間に意識して縛りつけていた常識や社会規範で作られた鎖が外れた気がした。

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