ハイライト改訂版㉘

「お前、正気か?」
 酒に酔った翔平が僕を責めるように口走った言葉には棘があった。いつもの居酒屋でテーブルに置かれたグラスや取り皿、灰皿も普段通りだった。それなのに個室には居心地の悪い空気がこもっていた。楽しくバカをやっている和やかな印象とはまるで異なる真逆の雰囲気だ。
 事の発端は、美沙の不用意な一言だった。美沙にしてみれば、親友の報われない現状を伝え、打開策を求めたのだろう。だけど内容が内容だけに上手く転ぶことはなく、結果的に呼び出された夏の日の事にまで追求がいった。
夏休みは春休み同様それぞれの時間を過ごしており、秋学期初日の今日、久し振りに顔を合わせた。例の如く、翔平からの集合だった。そんな楽しいはずの時間が、こんなにもどんよりとした修羅場になってしまったことに胸が痛んだ。
「正気だよ」
 僕はテーブルの上に置いたタバコの箱を手に取る。タバコを吸わないと平静を保てない切迫感が手を動かしていた。
「和樹らしいけど、正直オレには理解できない。バカじゃねぇの? 折角のチャンスだったのに」
 冷たく言い放ったジーターは、グラスに入った柑橘系のサワーを口に含んだ。沈黙が続く飲み会は息が詰まる。こんな惨事に見舞われてから、ずっとタバコの味も酒の味も分からない。
「確かに和樹らしいと思うし、茜ちゃんの味方になる理由も分からなくはない。ただ、和樹はそれでいいのか?」
 誠治の一言は切れ味が鋭く容赦ない。彼女と屋上で話した時から壊れ始めた心が、どんどん壊れていく感覚があった。しかし当事者としての立ち位置から逃げるように、壊れていく心を他人事のように眺めていた。
「僕はそれでもいいと思ってる。それに人の恋路に割り込むのは、僕の役目じゃない」
 何か達観した賢者のように言葉を紡ぐ。自分自身の選択を肯定し、誠治たちが抱く僕の立ち位置を否定する。そこに根拠めいた理屈など無かった。ただ彼女が好きな人と一緒にいる僅かな幸せの時間を邪魔する訳にはいかないという歪んだ正義感が口を動かしていた。
 彼女の選択が社会規範に正しくないことは分かっている。でも止める訳にはいかなかった。それが不倫であり、社会のルールから逸脱していると理解していても。
「お前、好きじゃないのかよ?」
 翔平は今にも爆発しそうな怒りを顔に出しながら訊いた。誠治の隣にいた美沙は、まさかの展開に、申し訳なさが顔に浮き彫りになっている。その顔を一瞥してから僕は言った。
「好きだよ。だから何もしないんだよ」
 個室の中が居酒屋とは思えない程、静まり返った。スタッフを呼ぶチャイムの音が二回ほど耳に届く。笑い声のない飲み会は、誠治たちがいない全く別の飲み会に参加しているようだった。このメンバーなら、こんなチャイムの音や足音なんて気にならないくらいうるさいのに、と静かに毒づいた。
「お前の放任主義具合は、もはや病気だな」
 翔平はもはや呆れた表情だった。もしかしたら殴られるのかもしれない、と感じながらも態度を崩さない。代わりに頭の中で何度も浮かぶ疑問符と否定の言葉を何度も咀嚼し続けた。
 僕に何ができる?
 葛西さんのところにでも行って、仮に一発殴ったところで何が変わる?
 今の弱っている彼女に付け込んだ先にある未来が、明るくなるのか?。
 逃げ腰の人間が口に出しそうな常套句ばかり脳内で踊る。
「和樹って、自分を守り過ぎる傾向あるよな」
 ジーターは、何か思い当たることがあるような口ぶりで言った。個室にいた全員の視線が一気にジーターに集まる。
「一点取ったら、即守備固め的な思想、オレには分からない」
 悟ったように並ぶ言葉に、心臓が締め付けられる。それ以上、何も言わないでくれ。
「グループとか組織に属している時は、それでもいいと思うんだけど。どう転ぶかは考えないとするけど、今回の件で言えば和樹のエゴを出しても良いところだろ? それを相手の顔色を窺って決めるのは守り過ぎだろ」
「そうじゃない。僕は……」
 脳内に浮かぶ言葉を口に出せば、危機的状況は回避できるかもしれなかった。でも思うように口が動かない。
「ジーターの言うことは分かるけど、本質は違うんじゃない? 単に和樹が悲劇のヒロイン症候群に陥っているだけだろ」
 翔平はこの春学期に学んだ心理学の知識を口にする。拙い知識で翔平の言いたいことの本質を読み取ろうとする。確かにその傾向があるのは認めるけれど、本筋からはズレている。仮にそうであれば、僕はここで嘆き節全開の悲劇の物語、それに付随する感情について能弁に語り始めているはずだった。
「覚えたての単語を使いたがるなよ」
 翔平を睨み、冷たい口調で僕は言った。冷え切った夫婦間で交わされるような相手を傷つけるためだけの口調。さらに空気が重くなる。
「人間関係について言えば、和樹は自分勝手の傾向というか、自信が決定的に欠落している部分があるからしょうがないかもしれない。だからこそカメラを持てば性格が変わる理由、手に取るように分かるよ」
 誠治は重たい腰を上げた。まるで全員の意見を総括する、と言わんばかりだ。もしかしたら以前から思っていたことを口にしないといけない状況になっているのかもしれないと誠治の見えない本心を掻い摘む。
「もしもここで何か行動しても一番傷つくのは茜ちゃんだと思っていたら、それは大きな間違いだよ。茜ちゃんを擁護する立ち位置に立っているつもりかもしれないけれど、本当は一番大事な自分を傷つけたくないんだろ? 不用意なことをすれば、今の良好な関係も壊れてしまうかもしれない恐怖心から身を守るために、体の良い言い訳を並べて行動しない理由を凝固にしているだけ。何もしなければ、流れのままに進んでいくから最終的に誰かに責任転換もできるしな。結局のところ、和樹の選択は彼女じゃなくて自分を守っているだけだぞ」
 誠治の言葉にぐうの音も出ない。
「それにな、今回の件とは外れちゃうかもしれないけど、和樹は周りの目を気にし過ぎるんだよ。別にお前が何かをして失敗したら、オレたち、いや多くの他人から弾圧されるとで思っているんじゃないか? だから決して一線を越えない。越えなければ傷つかない。言葉が悪いけど、何もしなければぬるま湯に浸っていられるし、誰かに気にかけてもらえる。そこに満足感を抱いているだけじゃ、何も変わらない。もっとキツイことを言えば、その態度を続けたら、そのうち人は離れて行くぞ」
 誠治が僕の事をお前と二人称で初めて呼んだ。誠治が僕に抱くフラストレーションのようなものを吐き出している、そんな気がした。やっぱり誠治は僕の事をよく把握していた。
 僕は何かをして人が周りからいなくなることをひどく恐れていた。それに何もしていないような姿ばかりを見せている誠治たちが、色々なことに成功していることに対して、その側面だけ見て羨ましいと思っている傾向があった。何もしなくても誠治たちが分けてくれる優しさに僕は甘えていたのかもしれない。
 何もしなければ何も変わらない。その固定観念を証明したかったあの頃が、僕を突き動かす原動力だったはずなのに、いつの間にか僕は動くことをやめてしまった。誠治が言った通り、ぬるま湯の居心地の良さにどっぷり浸かっていたのかもしれない。自分で事を起こさなくても、何かが変わっていくことをどこかで知ってしまった弊害が僕を骨の髄まで毒していた。
「でもな、和樹の写真への態度だけは違う。自信があるというか純粋に自分の気持ちと向き合えているんだよ。だから写真に対しては周りが見えなくなるし、自分の意見をしっかり言う。それを証明写真撮ってもらった時に感じた。多分、誰かに嫌われるとかそういう自意識を無視できるだよ、本当は。和樹が押し殺しているけど、人目を気にせずに純粋になれる部分があることを確認できて安心したんだよ。それに就職活動の放棄だって、バーベーキューの時のキスもさ、そういう押し殺している部分を壊して、自分の本当の気持ちを解放し始めたんだろうなって思ってた。だから今回の選択にみんなが戸惑っているんだ。それは分かって欲しい」
 その言葉を最後に、彼女の話や僕の本質についての話は鎮火していった。張り裂けそうな感情の一つひとつに僕は理由を付けていく。いつからか僕は自分自身のことを客観的に見ようとしていた。多分、それが大人だと思っていた。
 誠治の言葉で一つの答えに辿り着いた。壊れても大丈夫。僕が醜いと思い込んでいる一面をさらけ出しても、誠治たちはきっと居てくれる。友情なんて青臭い言葉の先を少しだけ垣間見ることができた。
 その時、僕は考えていた一番の愚策を選ぶことを決めた。絶対に選ばないはずだった。でも僕は帰り道アドレス帳を開いて、その人の名前をスクロールして探し、気付いた時には短文のメッセージを送っていた。
 カッコ悪くても、誰かに非難されても、自分の本当の感情を貫こう。
 そんなことを決意した帰り道、半袖では堪える秋風に吹かれながら歩いた。飲み会の後に襲ってくる孤独感が今日は不思議と薄くなっていた。


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