ハイライト改訂版㉗

「……ありがとう」
 沈黙を破った感謝の言葉は、どこか想定の範囲内の言葉だった。その後に続く、接続詞の有無によって、僕は全く異なる景色を見ることになる。
この時に僕は初めて知った。誰かに想いを告げることは、幾つもの覚悟を決めて行う神聖な儀式めいたものであることを。勿論、僕のような人間には、という言葉を修飾する必要性が絶対条件ではあるが。
 誠治や翔平にとってこの感覚は、乏しいというか遠い過去なのだと思った。二人は、自分の意思、もしくは意思が無くてもこの儀式を何度も経験している。一緒に時間を過ごしている二人ではあったが、僕とは異なる人種だということを改めて突きつけられた気がした。
 
 三年経った今でもこの場所に立つと、あの時の記憶が鮮明に蘇る。景色も夕日の沈み具合、彼女の顔や後ろ姿、僕の拙い言葉も思い出せるのに、彼女が僕を傷つけないように言った言葉は何故か思い出せない。
 タバコに火を付けてから室外機の上に腰かける。タバコを吸い始めたのは、彼女に振られてから。きっかけは、葛西さんだった。その事実を思い返すと白く着色されたため息が一つ落ちた。自棄になってタバコを吸ったと言ったら、彼女に怒られるだろうな、と思いながらも誤魔化すように煙を吸い、吐き出した。
 晴れた空は透き通るほど青く、どこまでも繋がっている気がした。彼女もこの空を見ているのだろうか。なんだか切ない気持ちが込み上げてくる。多分、この場所で撮るコンテストのテーマに一番ふさわしいと思い始めたのは、過去への執着だろうか。そんなことを考えて見上げた空にささやかな願いを呟いた。多分、一生叶うことのない淡い想いだった。
「ため息は幸せが逃げるんだよ」
 彼女の声が聞こえた気がした。分かっている幻聴だ。だから敢えて返事をした。
「幸せが逃げても構わないよ。たったひとつの願いが叶えばそれでいい……」
「たったひとつの願いって?」
 思わぬ返事に焦って振り返る。そこには確かに彼女がいた。都合のよい状況だということは分かっている。でも、確かに彼女がいた。そのフィクション補正が現実に起きていることに単純に驚きを感じた。
「びっくりした?」
 彼女は僕の顔を見て言った。やっぱり出来過ぎている、そう思った。
「うん、びっくりするでしょ。誰も居ないって思ってんのに誰かが居たらさ。それも茜ちゃんだったら余計に」
「そうだよね。だから来ちゃった」
 屈託のない笑顔のまま言う彼女への返事の言葉を探し、口にする。
「なんでここに来たの?」
「ゼミの課題に必要な本を借りに来たの。そしたらカズ君のロードバイクが置いてあったから、もしかしたらいるのかなって思って来てみた。そしたら本当にいるから驚いちゃった」
「そうだったんだ」
「懐かしいね、二人でこの場所に来るの」
 彼女は遠い過去を掘り起こすような口ぶりで言った。僕にとっては止まったままに感じる時間も彼女にとっては遠い過去なのだと思い知ってしまい、自分の女々しさを呪った。
「三年前のこの時期以来だよ」
「そっか。もうそんなに経つのかぁ……。カズ君の告白、驚いたよ」
「分かってるもんだと思ってた」
「薄々はね。でもちょっと意外だったかな」
「どういうこと?」
「私の事なんて、そういう対象で見てないって思ってたからね」
「……」
「カズ君の告白、実は初めてされた告白だったんだ。それまで告白されることなんて経験したことなかったから。本当に嬉しくて今も覚えているんだよ」
 彼女はそう切り出して言葉を並べた。三年前の答え合わせは、今尚彼女のことを想う僕には拷問でしかなかった。見えていないけど表情は最悪だろう。不意にやってきた過去と同じ光景は僕を何度でも絶望へと運ぶ。あの頃と変わらない展開は、心の一部分を簡単に壊す。
「……嬉しかったんだけどね。あの時に話したけど、私は葛西さんが好きだったんだ」
 彼女の結びの言葉に僕は目を瞑る。そして必要のない覚悟を決めた。
「どうしたの?」
「葛西さんこと今でも好きでしょ?」
僕はパンドラの箱に手を掛けた。捨て鉢的な気持ちを含んだ半ば投げやりの言葉だった。彼女の隠したいはずの内容を追求する先に待っているものは一体なんだろうか。
希望か、絶望か、それとも……。
 僕の問いかけに彼女の顔はみるみる固くなっていく。僕はその変化を静かに見守った。パンドラの箱は、厄介事で塗れた彼女の現実、ある意味であの日の延長戦に繋がるような火種だったのかもしれない。僕はそれにあっさりと火を付けてしまったのかもしれない。一抹の罪悪感が僕を包んだ。
「知ってたの?」
 長い沈黙の先で彼女は言った。ひどく寂しそうな声色は、一部壊れかけた僕の心に染みて、意味もなく叫びたくなってしまう。彼女を苦しめている状況は、更に僕の心を壊していく。それでも僕は伝えたかった。彼女を取り巻く環境に彼女を擁護する人はいないという結論に一石を投じたい、僕は彼女の味方だと……。ただ、それはあまりにも独りよがりの一念でしかなかった。
「うん」
「美沙から聞いた?」
「それは答え合わせというか、薄々分かってた」
「どういうこと?」
「僕は茜ちゃんのことに関しては、一番敏感だと思う」
「……」
「別に僕の答え合わせなんてのはどうでもいいんだ。茜ちゃんの選択肢に後悔が無ければ、僕はそれでいいよ」
 どこかにありそうなドラマの脇役に扮した僕は、一丁前にカッコつけた。精一杯の強がりだった。彼女は僕の言葉を咀嚼するように目を瞑った。
「後悔は……ないかな。でもね、彼の隣は嬉しい場所だと思っていたんだけど、実は寂しい場所だった。――なんか上手くいかないね」
 彼女の言葉は儚く消える。その真意は僕にはよく分かった。セカンド彼女と呼ばれる人がいる場所は、僕がいる場所よりも満足感があって、それでいて喪失感で染まる孤島だということを。
 片思いの延長線上にある決して一番になれない場所。そこは決して光は差さない。一瞬の幸福感、僅かながらの希望、ひと時の幸福感、それに比例しない罪悪感と寂しさが共存している場所は、僕のいる場所なんかより孤独だ。抱きしめることも甘えることもできるけれど、それ以上のダメージを負う。僕のように最後の一歩を踏み出すことなく、安全な場所で市販薬のように都合よく使われ、自発的に何もできない消耗品とは違う。本質は似ているけれど、心の持ち方に決定的な差がある。
 自分が傷つくのを恐れて近くで使われながらも僅かな望みを求める偽善者と自分が傷つくのを承知してそれでも近くで使われながらも僅かな望みに期待する正直者。僕が渡れなかった橋を彼女は平然と渡ったことを心のどこかで妬ましく捉えていた。
 僕は言葉に詰まっていると、彼女が声を出した。
「カズ君、タバコ」
 彼女の声で、吸っていたタバコがフィルターギリギリまで燃えていることに気付いた。指先に熱が伝わってくる。僕は反射的にタバコを地面に落とした。
「大丈夫?」
「うん、慣れてるから」
 僕は地面に落ちたタバコを地面に擦り付け火を消してから拾い、持参している携帯灰皿へと入れた。
「カズ君はなんで、不倫している私の事を否定しないの?」
「だって気持ちは分かるから。もし、僕が茜ちゃんの立場だったら、そういう関係になってしまう可能性が高いし。それに誰も今の茜ちゃんのことを支えないでしょ? だったら僕は支える側に回るよ」
 僕の抱く本心を彼女に伝える。彼女は黙ったままだ。
彼女の後方に見える校舎に光が灯った。青かったはずの空がほのかにオレンジ色に染まり始めていた。気付けば長い時間、僕はここにいた。過去から逃げ出す器用さを持ち合わせていない僕には、相応しい滑稽さだった。
「カズ君の優しさ、なんだか痛い」
 彼女の目は充血し始めていた。このまま続ければ、彼女は涙を流すかもしれない。それでも構わないと思ったのは、僕がひどく卑怯な人間だったからに他ならない。
「そう言われても僕は茜ちゃんの味方だよ」
「……ゴメン」
 彼女はそう言い残して、僕の前から姿を消した。その後ろ姿を写真に収めたいという衝動が襲う。カバンの中に入っているカメラを取り出そうとして、すぐに止めた。彼女の弱っている姿を残すことは、絶対にしてはいけない禁忌であると判断した結果。
 僕は人生で一番深いため息を吐き出してから、もう一度タバコに火を付けた。綺麗だと思っていた都会の風景が歪んで見えた。

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