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6月7日の戯言。

 ドラマ「拝啓、父上様」に出てくる梅宮辰夫や奥田瑛二のような余裕のある渋い大人に憧れている。
 でもそういう憧れを見直すときは大抵、情緒不安定だ。なぜなら現状ではなく、未来の姿をぼんやりと想起しているからだ。本来ならば、ゴール地点を設定したら、スモールステップを考える。それが正しい筋道だと思う。けれど、憧れの姿だけを追いかけている。これは良くないサインだ。 
 情緒不安定。これに関しては、今に始まった訳ではないけれど、不意に顔を出すから面倒で、何より収束する方法を未だに見つけていない。けれど不安定になる原因は知っている。
 自意識過剰で自信家。プライドが異常に高く、受け身が取れないことだ。
 染み付いた思考は、あまり好ましいものではなくて、なるべく尻尾を掴まれないように心掛けている。だからこそ、不測の事態にはバランスを崩してしまう。その結果、隙間が生まれてしまって、待ってましたと言わんばかりに溢れ出す厄介な表情。(いや、今までのブランディングが崩れるのよ。)
 一つのミスが世界崩壊を招くと本気で思い込んでいる自分。
 ミスを笑い話に昇華しなければと本気で思い込んでいる自分。
 落ち着いているとき、事後には常に後者へと意識が集中する。しかしながらミスをした瞬間から本当の意味で我に返るまでは、前者の方が強い。面倒な人間だな、と自嘲してしまう。何度も経験してきているのに、一向に解消できない。何故だ、僕は答えを探しに本を探す。
 「社会人大学人見知り学部 卒業見込」 
 オードリーのツッコミ担当である若林正恭のエッセイ集を結果的に手に取る。なんだかんだで年に一度は読んでいる気がする。そして毎回、新たな発見に心が穏やかになるような感覚を抱くからだ。なんでんだろうと考えると「共感」という言葉が先行する。けれど「共感」というには、抵抗がある。理由は単純で「共感」という意味に不信感があるからだ。

「共感」デジタル大辞泉 - 共感の用語解説 - [名](スル)他人の意見や感情などにそのとおりだと感じること。また、その気持ち。

 その通りだと感じても、そこに至る経緯や環境差によって誤差が生じる。結果的に「共感」ではない別の気持ちが働いていると斜に構えてしまう節があるからだ。いや、面倒な人間だわ。
 そもそも「共感」できるほどの人間力というか、経験値が圧倒的に不足しているのだ。かろうじて社会人を演じているけれど、本質的には社会人になるための能力というものが欠落しているのではないかと不安になる。社交性もなく、いわゆる中二病をこじらせていると気付いているから。
 学生時代、心理学を学んだ結果、人の気持ちがより分からなくなるという通過儀礼を見事に通り抜けた。更に知らなくてもよい知識も蓄えてしまったからこそ、より目線が自己へと向いてしまう悪循環に巻き込まれている。人間として欠落している部分に目が行き、排除されないようにと、受け身を取らなくてよい場所を探して、演じてきた末路だ。プライドの高さはベジータ並みなのだろう。力もなく、努力もしないベジータが近くにいると仮定した場合、申し訳ないが僕でも距離を空けるだろう。そもそも聖人君主ではない。むしろ対極にいるような人間だ。面倒な人間を見守れる余裕なんてないのだ。
 では「共感」ではないとすると、なぜ手が伸びるのかを考える。文章を読んでいると「たりないことが多かった。それでも生きていける」と背中を押されるような感覚があるからだ。著者はそんなことは微塵も思っていないかもしれないけれど、僕にはそんなメッセージを抱かせる。
 背中を押されることが僕にとって重要な役割を果たしてくれる。おそらく自分を肯定してほしいと心底思っているからだ。外野からボロクソに言われる経験があるからこそ、よりその思いは強い。
  肯定される機会なんてのは、あまり巡ってこないけれど、肯定される時は嬉しくて、その人に付いて行きたくなる。逆に否定されれば、ハンムラビ法典よろしくの精神が前面に出る。これに関してはプライドの高さが影響していることはあることは分かっている。けれど、絶対に忘れないからな。デリケートな奴だな、と再び自嘲する。そして絶対に逆転ホームランを打ってやると意気込む。こんな人間でも生きていて良いと自分自身を肯定するには、自己啓発本では対症療法にもならない。ここで彼女みたいな存在がいると問題はここまで拡大しないだろうけれども、また別のことで頭を悩ますことは認識している。そもそも世界の中心が自分で回っていると勘違いしている奴は彼女ができることもなく、きっかけも見逃すからだ。全部、矢印が自分に向いているのだから。俯瞰で周りを見ているつもりで自分を見ている。そんな奴だからこそ、他者からの肯定も長続きしない。
 ならば結果だ、結果。圧倒的な結果だ……。
 あれ、これじゃ振り出しじゃないか?
 結果を欲して完璧主義に走る。その先はきっとスタート地点だ。そして襟を正す為に文章を書き出したけれど「でも、けれど、しかし」の連発。こんな接続詞ばかり使っている時点で、今を正しく見れていないのだろうな。
 どうやら自分以外のことを見る余裕を筆頭に、圧倒的にたりないことが多いみたいだ。
とりあえず今は、手に取ったエッセイを最後まで読み切ろう。


 文責 朝比奈 ケイスケ
  

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