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小説✴︎梅はその日の難逃れ 第28話

春翔が梅干しを切らしていた頃の事。

『バイト先の包丁で指を切る』

『財布を無くす』

『天気予報を確認して
折りたたみ傘を用意したのに
いざ開いてみると骨が折れていた』

『ホットコーヒーって頼んだ客がアイスコーヒー頼んだと言い張ってくる』

なんだか事がうまく運ばない。

小春の梅干しを食べてからは、市販の梅干しをどうも買う気にはならない。

かと言って、小春さんに欲しいとも言いにくい。
たまたま上手くいかないからと言って
梅干しのせいにしている自分もなんだか滑稽に思う。

それが、また手にする事が出来て
何より嬉しかった。

春翔は、再び小春さんの梅干しを食べるようになった途端……

『寝坊して授業に遅刻したけど、教授が腹痛で休講になっていた』

『お財布に1万円札と120円。130円のジュースを買おうとしたら、定期入れから10円出てきた』

『バイトで自分がオーダーを間違え、下げようとしたら、隣の席の客に
それが欲しいと言ってもらえて
無駄にならず済んだ』

『傘を持たずにバイト先に行ったら、ドア閉めて入った途端土砂降りの雨が』

「授業中、ペンを忘れたことに気が付いたら、以前友達に貸したペンを返された』

ほんの些細な事だけど、こういう事が立て続けに起こる。

そしてこんな事もあった。

『たまたま転がって来たボールを拾ってあげようと立ち止まってたら
信号無視の車に轢かれなくて済んだ』

命拾いまでしたのだ。

その後、無くした財布が
奇跡的に見つかった。
認知症のおじいさんが拾ってくれたけど、そのまま持っていて、お嫁さんが気がついて交番に届けてくれた。免許証から、連絡してもらえた。

バイト先の客から
折りたたみ傘をプレゼントされた。
その客は、折りたたみ傘を作る工場の社長で新商品の開発したものを使ってくれない?とプレゼントされた。

ついてないなって事が
全ていい方に回収されていくのだ。

「難逃れ」はいつしか
春翔には「小春さんの難逃れ」に変わっていった。

♢♢♢♢♢

春翔が小春さんに
ハンガリーウォーターの話をしている時
ふと自分は、ポーランドの王子で
小春さんがハンガリーの女王みたいだと思った。

いやいや、いくらなんでも……
と思いながらも、小春が
親切で優しいおばあちゃんというより
素敵な女性に見えてくる。

初めは大好きだった料理上手な祖母を、思い起こしてくれる人だったが
会うたびに、心惹かれるのだ。

年頃の女性を好きになる感情と、違うとは思うけど、いまの春翔には
そばに居る心地良さ、会話が楽しく
癒される時間を過ごせるのは
小春との時間なのだ。

そして何より、小春の梅干しが
ラッキーを運んでくれていると
確信している。
こんなに小春さんに会いたいって思っている。
この想いは、なんなのだろう?

♢♢♢♢♢♢

「そばに居たいと思うのは
恋なんですかね?」

外は雨で、客足も落ち着いた時間の
『あけぼの』で
唐突にマスターに問う春翔。
「おいおい、どうした?」

窓外のしっとりした景色に、少しセンチメンタルになってしまったのか
春翔の何となく口をついて出てきた言葉だった。


「わからなくて……なんだかこの気持ちを何処に持って行けばと。答えが見つからないんです」
「恋ねえ。前に言ってた憧れの人?」
「はい。憧れだったんですけど、なんだかその人の事ばっかり考えちゃったり、会って話がしたい。そばに居たいって」
マスターはコーヒー豆の選別をしながら
「まぁ、一般的なことで言えば
そりゃ恋してるなぁ」
「ですよねぇ」
「どんな人なんだろうねぇ。春翔くんを夢中にする人は」

「内緒です」
春翔は笑いながらも
『あけぼの』にも置いてある
梅干しの瓶を、眺めた。


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