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小説✴︎梅はその日の難逃れ 第32話


「うーん。駄目だなぁ」
春翔は部屋で千鳥の描いた梅干しのラベルをプリントしてみるが、カスレが多くプリンターの調子が悪い。
仕方なく、実家へ行きプリンターを使わせてもらうことにした。
一応、母親に連絡を入れたら
祖父がいるはずだから寄っても大丈夫とのことだった。

「春翔でーす」
呼び鈴は鳴らさず、そのまま玄関を開ける。
祖父の「開いてるぞ」の声を聞きつつ
リビングへ行くと、新聞を広げた祖父の姿があった。

春翔はすぐに「書斎のプリンターお借りしまーす」と祖父に話しかける。
「うむ」
目をこちらに向ける事なく、祖父は言った。

聞かれたわけではないが、春翔は祖父に話した。
「今、僕がバイトしているカフェが、店をたたむことになってさ。閉店イベントすることになって、その手伝いでチラシや何やら印刷したかったんだけど、僕のプリンター、調子悪くてさ」
「カフェとは『あけぼの』とか言ったか?」と祖父が聞いてきた。
「え?覚えてたの」
「店の前を通った事がある」
「そうなんだ」
「あの辺りは馴染みがある場所だ」
「へえー。だったらイベント来てよ」
「気が向いたらな」
新聞に顔を戻した祖父の横顔に
春翔は「じゃ、お邪魔しまーす」と書斎に向かった。

懐かしい祖父の書斎。
かくれんぼの定番場所だったが
梅干しの一件以来、勝手に入る事は無くなった。
たまに書棚の本を借りる時に、足を踏み入れてはいた。
例の瓶が置いてあった場所は何も置かれていなかったが、長年瓶があったせいか、輪ジミが残っていた。
パソコンを開きプリンターのスイッチも入れる。
パソコンのトップの壁紙は、いくつかの花木の写真が貼ってあった。
小一時間程で、イベントに必要なものは印刷する事が出来た。
ちょうど終わった頃、母親からスマホに連絡が入り
『もうすぐ戻るから、待ってて』との事。
リビングに戻ると祖父は庭木に鋏を入れていた。


祖父は腕一つで
会社を大きくして、今は引退し
娘婿(春翔の父)に跡を継がせている。
昔、職人だった祖父の後ろ姿は
さすがに様になっていて、春翔も幼い頃その姿に憧れていた。

春翔は、祖父に厳しくも可愛がられ
色々な事を教えてもらった。
植物が好きになり
いずれは、自分も祖父、そして父の跡を継ぎたいと思っていたのだが、大学卒業後は、和歌山にある知り合いのガーデニング会社で武者修行させてもらう事にしたのだ。

程なく母も戻り
「お父さんのすきな『花緑』さんの和菓子買ってきたわよ!春翔も一緒にお茶しましょ」と声をかけた。

庭から戻った祖父と、母とで
春翔は季節の草花を模した、美しい和菓子を楽しんだ。

春翔は「だいぶプリンターのインク使っちゃったから、インク代払うよ」と言ったが
「そんなもんはいらんよ」と祖父は答える。
「そう?じゃあ今、印刷させてもらったこのチラシ持って、イベント来てよ!コーヒーの無料券付きだから」
何枚かリビングのテーブルにチラシを置いた春翔は
「やっぱ、うまいなぁ〜!『花緑』の
菓子は!」と頬張り、茶をすすった。

春翔の祖父は書斎に戻ると、何気なくゴミ入れに目を向けた。
春翔が試し印刷した物が、数枚入っていた。
リビングで目にしたチラシとは違う。

可愛らしいイラストと、ラベルが複数枚印刷されている。
それを思わず手に取った。

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