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『スーツ=軍服!?』(改訂版)第83回

『スーツ=軍服!?』(改訂版)連載83回 辻元よしふみ、辻元玲子
 
※本連載は、2008年刊行の書籍の改訂版です。無料公開中につき、出典や参考文献、索引などのサービスは一切、致しませんのでご了承ください。
 
 
④ヒモ飾り「飾緒」の歴史

「参謀飾緒」は参謀専用ではない?

ここで一つ取り上げておきたいのが、軍服のアイテムとして人気の高い飾緒(しょくちょ、しょくしょ)のことだ。一般のファッションとしても、装飾品として採用しているジャケットなどを見かける。
 前に書いたように、飾緒というのは、軍服の肩からぶら下げる金糸や銀糸の組みヒモでできた飾りである。映画「硫黄島からの手紙」の話題でも取り上げた「ヒモの肩章」いわゆる「モール飾り」である。軍服以外にも、パレード用の鼓笛隊の服や芸能人の舞台衣装などによく使われている。また、警官や警備員がホイッスル(警笛)を吊るすために、肩章に太い組みヒモを巻きつけているのを目にするが、あれも飾緒の一種である。
私は子供のころ、映画などでああいう飾りヒモが肩から揺れているのを見ると、カッコいいな、と思い憧れたものだ。
 その後、私が小学生のころか、あれは日本軍では基本的に「参謀飾緒」といって、参謀の職にある者だけが常用する、ということを知った。また俗に参謀肩章ともいう。当時の従軍者の手記など見ても、日常的には参謀肩章(懸章)で通っていたようで、別に飾緒と呼ばないと間違い、などと目くじらを立てるものではない。
 ところが、「硫黄島からの手紙」などでも話題となったのだが、その「金モール=参謀」、というのは、実際にはほとんど日本軍だけの風習なので、そういう意味では「参謀飾緒」という呼び名は、旧日本軍の話題以外では使わない方が無難のように思われる。
 先述のように日本軍でも、正装、礼装には飾緒があって、参謀以外の者もつけるべきものであった。また皇室付きの侍従武官も色違いの飾緒を帯びた。そういう意味で参謀の専用アイテム、という理解は正しいとは言えない。

 ◆むしろ「副官=秘書」の印である

 では外国ではどうなのか。
 いわゆる「参謀本部」というシステムを整備して、日本軍のお手本となったプロイセン・ドイツでも、士気高揚、エリート意識の維持のために参謀用の特別な制服は存在した。十九世後半に参謀本部の元締めとして普仏戦争の勝利に貢献し、歴史に名を記したヘルムート・フォン・モルトケ元帥が、参謀総長に就任する前後の時期に、「参謀用の制服の刷新」が行われた。しかしそこに「参謀は飾緒をつける」という規定はなかった。
 ドイツ軍の場合、銀色の飾緒=エギュレットAiguilletteが存在してアテュタント・エギュレット(副官飾緒)と称した。これは、司令官など偉い人の秘書である副官が身につけるべきものだった。なお、副官というと副司令官の意味だと思う人がいるが間違いである。副官というのは要するに重役秘書のことだ。
参謀もスタッフであり、司令官の付き人の一種なので広い意味で副官の一部、よって副官飾緒は着けてもよかったし、厳密に言えば着けるべきだった。しかし実際には参謀は普通の身の回りの世話をする副官よりも格上という意識が強いので、あまり飾緒を着けることはなかった。すなわちドイツ軍では「参謀飾緒」ではないのである。一方、礼装用の飾緒も存在したが、これは日本軍と同じで、将校たるもの誰でも式典やパレードの時には着けるべきものであった。
 ほかの国でも、どうも参謀だから飾緒を、という話は聞かないのである。明治時代に日本軍では、参謀本部という制度を導入したときに、その参謀という仕事の格を高めて、憧れを持たせるように、参謀のみがあれをぶら下げる、としたに違いない。日本では山県有朋(一八三八~一九二二)が参謀本部の原型を作り、参謀を使って全軍を統制するという特殊なやり方を考案した。ことに長州出身の山県は、薩摩や土佐出身の陸軍の指揮官をなんとしても抑えつけ、牛耳る必要を感じていたのである。だから参謀は司令官の補佐役であると同時に、山県のスパイでもあったわけだ。
 そんな政治的思惑で導入された制度なので、日本軍の参謀は諸外国と大きく異なる。本来は司令官の補佐役の一人であるべき参謀が、日本では司令官の副官、スタッフではなく、参謀総長の指揮下にあった。司令官に仕えていないから、平気で司令官を無視するし威張っていた。しばしば参謀の独断専行で滅茶苦茶な作戦をやって失敗するのが旧日本軍で、しかも責任を問われるのは常に司令官、参謀は逃げ出してしまえばほとんど無問責というとんでもない存在だった。そういう特権待遇の象徴が「参謀飾緒」にこめられたのではないか。
 なお、日本軍には平時の金色とは別に、地味な色彩にした「野戦用飾緒」まで存在した。外国軍ではあまり見聞きしないのだが、日本軍の参謀たちは最前線であってもなにがなんでも飾緒を着用したがったのである。

 ◆もともとは「馬の手綱」

 ところで、エギュレットの由来は諸説あるが、一六七〇年代以後、ルイ十四世時代のフランス軍で、司令官のお世話役だった副官 aide-de-camp(直訳すれば陣中世話役、というところ。野戦補佐官とでもいうべきか。洋書ではよくADCと略する)が、上官の馬の手綱を肩に引っ掛けて歩くとき、肩章に結び付けていた、というのが由来らしい。つまり馬の手綱、なのである。どうして飾緒が本来は「副官用」のイメージなのかこれで分かる。元々は、殿様の馬を引く家来、というのがあのヒモの象徴なのである。ただいずれにしても、この時代には意味合いや形式に明確な規定もなく、かなりまちまちな運用がされていたようである。別に火縄が原型なのでは、という説もあり、たしかにルイ十四世の時代には、銃兵の部隊で使用している例もあった。

皇帝や国王に直属する者の証だった

 飾緒を大々的に取り入れたのは、一七四〇年代、フリードリヒ大王時代のプロイセン軍であった。この当時のプロイセン軍では、国王に直属する近衛連隊の将兵が、全員、右肩に飾緒を着けるものとした。つまり、王様直属部隊、の証として用いられたのである。
 一八〇四年にフランス皇帝に即位したナポレオンの軍隊「大陸軍(だいりくぐん)」でもこの習慣を踏襲し、原則として皇帝親衛隊の将兵と、親衛憲兵隊の将兵が肩に着用した。つまり、皇帝直属部隊の意味だった。このナポレオン時代に、飾りヒモの先端に筆記用具をぶら下げる使い方も一部で見られた。斥候(偵察)に出た将校がメモをとるための工夫という。作戦を立てる参謀用、というイメージになったのはこのへんから後なのだろう。その名残で今でもあの重い金属製の先端を「石筆」と呼ぶ。大陸軍の参謀長だったルイ・ベルティエ元帥とその幕僚も、いうまでもなく皇帝直属なので飾緒を肩に着けることとなった。つまり、本来は「参謀だから着ける」のではなく、「皇帝に直属しているから着ける」のが正しい意味合いだったのである。なお、当時のフランス軍では副官は左腕にその職位を示す腕章を巻いて示しており、副官としての飾緒は存在しなかった。
 フランス軍ではまた、飾緒を勲章の一種としても使用した。名誉勲章を貰った部隊などに、その勲章のリボンと同じ色の飾緒をつけることを許可したのである。これは普通のものと区別してフォラージェFourragereと称した。ルイ十四世時代には肩章から飾緒を垂らした制服の部隊が多数、存在したから、この時代には制度化していたとみられる。これは今でも制度としてあって、第二次大戦でフランスを解放してくれた米軍部隊にも授与したそうである。
 一方、一八〇七年ごろから、プロイセン軍では将官の身分を示すための「将官飾緒」という制度を始めている。もちろんフリードリヒ大王時代の近衛兵の飾緒にあやかったのだが、また、将官となればそもそも国王に直属する、という意味合いも含まれた。同じ時代、ウェリントン公の時代の英陸軍でも、将官は正肩章(エポレット)を廃止し、将官用飾緒を右肩に下げる服装改正をした。一八一一年のことだ。なぜこの時期に、プロイセンや英国で将官用飾緒が流行ったかといえば、正肩章はいかにもナポレオン軍というイメージが強かったので、対抗する意味合いも強かったようだ。
 そういうことで、エギュレットが参謀の意味に限定される傾向は実は、旧日本軍に限った話である。ほかの国では意味合いが違い、国により時代により異なるものの、基本的には皇帝や国王に仕える近衛兵や親衛隊員、将官としての証、あるいは司令官に仕える副官、つまり秘書の人の目印であったということである。

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