笑顔のボマー玉を入れて回す、道徳パチンコについて
「やっぱみんな悪そうな顔してるなあ、まあ、ヤクザやしなあ。でもな、このへんの見てみ、こいつらはやっぱりキチガイなんやで、こいつとかな、爆弾作ってぎょーさん殺してわろとるで」
わたしが最初に持った「キチガイ」のイメージは、そう、彼であった。しげしげと指名手配のポスターを眺める父が、同和以外のポリコレとは無縁であった30年以上前の大阪の街角で放った言葉がさしたのは、凶悪な人相の指名手配犯の中で、ひときわ爽やかな笑みをたたえていた、彼であった。
確かに、会話が通じない障碍者や、言葉は通じるが意図は意図的に通じないクレーマーなど、キチガイということばが悪い意味でつかわれることは多い。しかしながら、爆弾を作りながら満面の笑みを浮かべている人間がいるとするならば、やはりかれはキチガイの中のキチガイ、完全なるキチガイなのだろう。わたしはそのように記憶したのであった。
その謎めいた笑顔、50年近く消息を絶っているという事実、そして絶対に警察があきらめてはならない凶悪犯という理由での、意地のポスター貼り、それらはいつしか彼をネットミームの一つに仕上げたようだった。
そして、時は流れた。どうやらその笑顔の爆弾魔「桐島聡」は、彼の寿命が尽きる直前に正体を明かしたようだ。別の報道の写真も笑っているので、本当に写真うつりを気にする人だったのかもしれない。
もう死んでしまった以上、彼が何を思って50年身を隠したのかはわかりえない、そして、テロリズムを許さない良き市民たちは、ここぞとばかりに徳を集める。
確かに、彼の人生は勝利とは程遠いものであったのは事実であろう。なんせ彼が志した日本人を打倒する真のプロレタリアートの革命なんぞはまったく後に続く人は出なかったうえに、彼自身も日本社会の一つの歯車として生きて、そして死んだのだ。
面白いのは、上の発言に対し「末端で働く工務店の労働者全体を馬鹿にしている」との批判が寄せられた際に、それは誤読であると反論を行っているようだ。
とはいえ、この観点は決して珍しいものではない。「あんたらも勉強せんかったら、あんなふうになるんやで」と、母親から言われたことは、方言はともかく、記憶にある人のほうが多いであろう。
警察が50年追いかけたテロリストが、その赤い屋根の家の横にも住んでいるとは考えづらい。「あんなふうな人間の住む家」と目される家の隣や、奥の家に住んでいる、何かしらの人間がいると考えるのが順当であろう。そして、良き市民は彼らに何かを張りたくて仕方がないものである。そして、テロリストというタグであれば、どれだけ踏みつけても問題はないだろう。これは道徳のパチンコゲームであり、フィーバーが出ているのであるから、回し続けなければならない。
「テロリストを称賛するなんて、なんてレベルの低いやつだ」
ある文脈では、左派への批判、ある文脈では、安重根をたたえる韓国への批判を行う、まごうことなき「ただしき」文である。テロは、文明社会に生きる人間として、決して許してはならない。そこで、どのようなテロが批判されないのか、いくつか例を挙げておきたい。
1.敵対的学者を、闇討ちにして暗殺したケース
2.組織自体が摘発されそうになったので、とりあえず政府庁舎ごと爆破したケース
そのいずれも、実行犯や首謀者が偉大なる英雄としてのちに一国の首相になった点は、記憶しておくべきであろう。彼らは偉大な建国者の一員であって、邪悪なテロリストではないのである。なんなら後者は、作戦成功後に笑っていた気がする。
彼らは、くだらないパチンコなんてやらなかっただろう。良き市民やらみじめな老テロリストとは違う。
そう、彼らは大物だったのだ。良き市民たちがたたえるほどに。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?