Wokeはなぜ笑えないか、笑いのもつ力について

どうやら森羅万象の専門家にして、現代を生きる大哲学者として名高いひろゆき氏が、新たなるざわめきを引き起こしたのだという。

きっかけは、記事の通り1枚の写真である。恐らく炎上耐性について日本最強クラスを誇る彼は、この投稿を消さないであろうので、こちらにリンクを張ることにする。

どうやらこういうことのようだ。辺野古基地建設反対派は、ダンプカーが基地建設現場に到来する特定の時刻(1日3回)のみ「座り込み」と称した抗議活動を行っており、彼はメディアのしきたりに反し、その時刻以外にやってきた上、抗議活動の情熱に水を差す冷笑的振る舞いを行った、のだという。

彼の行いが、左派を嫌う人々の人気集めを意図して行ったのか、あるいは天然だったのかは定かではないが、いたく基地建設反対派の怒りを買ったことは事実であろう。

そして、彼らの怒りは、この投稿に寄せられた膨大な「いいね」に向けられた。どうやら、このひろゆき氏の投稿にイイネを押すことは、沖縄県民を冒涜することであるという。

しかしながら、奇妙な話と言うほかない。確かに基地建設反対派は、県知事選挙でも勝利し、沖縄県において与党としての地位を保っている。しかしながら、あらゆる政治問題同様、基地建設を最優先のアジェンダとしない県民は事実として存在し、「基地建設反対を揶揄する」=「沖縄県民を愚弄する」という定理は、かなり矛盾をはらんだモノと言える。

辺野古基地の移設の是非については、沖縄県における社会問題に詳しい専門家、あるいは軍事アナリストにお任せしたい。ここでは、このひろゆき氏の醸し出した笑いについて分析したい。

逆さまにして考える

仮にこれが、右派的アジェンダとされる「北方領土奪還」「拉致被害者奪還」とかいうテーマでの座り込みであったならどうだっただろうか。やはり、それが一日三回定時実行の集まりであるなら、それを笑う人は現れたであろう。「座り込み」という言葉に、活動家でもない大半の日本人がイメージするものと乖離がある以上、それはやむを得ないだろう。

コンテキストの支配者〜正義のWokeMan

「ハンスト」がオレンジジュースダイエットを意味し、「座り込み」が定時実行のお祭り騒ぎを意味していることを知ったとき、多くの人間は活動そのものへ疑いを抱かざるおえない。そもそもの政治的目標の正しさはともかく、言葉と実態に余りにも乖離があるからだ。

しかしながら、コンテキストの支配者はそれを許さない。そこに懸念を抱くことは、すなわち沖縄県民への差別であり、基地負担を押しつけている本土民としての自覚が足りないことの結果であるという。故にわたしたちが言語の見解を変えなければならないのだ。

沖縄県における基地問題についての是非はともかく、「毎日仕事を邪魔する抗議活動家は、辺野古基地の建設作業に従事するダンプカーの運転手を冒涜している」、というポリコレ側からの批判が聞こえてこないのも、やはり彼らにとって「基地建設にいそしむ労働者」などというのは不可触民に等しく、声を取り上げるべきでないからに他ならない。

正当な市民とは、反基地運動の「座り込み」に参加する人々を指すのであって、警備員や運転手といった労働者はその範疇にはないのだ。しかし、WokeにWokeをぶつけることは、やはりそれも面白いモノでは無い。わたしたちには、よりよい武器がある。

WokeManを撃退する作業服、お笑い

結局のところ、目覚めた人々(WokeMan、あるいは彼らの流儀に従いウォークパーソンとでも)は、言語の定義者という地位を簒奪することにより、その地位を手にしようとしている。マナー講師がマナーをの定義者として権力を振るうように、彼らは言語の定義者として人々を支配する。

しかしながら、わたしたちには武器がある、そう、笑いだ。隣の大国が最高指導者を揶揄することを防ぐために、くまのプーさんを発禁にしたことは、彼らの体制を守る上では実に正しかった。

そう、WokeManは常に真顔で、つまらない人間でいざるおえない、彼らがお笑いを認めた瞬間に、彼らの権威も、目標も、力もすべて剥がれ落ち、たんなるお笑いの一シーンと同化するからだ。

揶揄こそ、不条理に対する最強の抗議に他ならない。オーバーなカリカルチュアは、その矛盾を明らかにする。奇妙なモノを、自然に笑うこと。それこそが社会を守り抜く最強の防壁といえるだろう。

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