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母の日に母親と絶縁したから適当に振り返る

母親と絶縁した。
5月12日の日曜日。そう、母の日真っ只中の出来事である。

思い返せば暴力が真っ先に浮かぶ人生だった。

最も古い殴られていた記憶は3歳だろうか、クリスマスプレゼントが嬉しくてはしゃいでいたら揚げ物をしていた菜箸でおでこをしばかれた。道徳の授業は親の世代にはまだなかったらしい。
その後も親の暴力性は変わらず、目が合えば何を見ていると殴り、パチンコに負けると腹いせに殴り、朝起こしてと頼まれ起こせば殴られた。
繁殖期を迎えた猿もかくやと言わんばかりの凶暴性である。
そういえば子供の頃以上に早く寝かされていたが夜中に目覚めるとかなりの高確率でSEXをしていたように思う。
繁殖期を迎えた猿だったようでその凶暴性も納得である。

そんな親の心理なぞわかりたくもないがそれでも寄り添い考えるとしたら『子育てにおける暴力のコスパの良さ』を重視したのかもしれない。
聞き分けのない子供に言葉で接するよりも力で接する方が(社会常識を身に付けていればできない方法だが)何倍も簡単だ。
シンプルであり本能的な感情に語りかける対話方法が暴力である。
子供も悪いことをすれば叩かれる。叩かれるのは嫌だからやらないようにする。
しかし暴力には問題がある。効き目が強すぎる毒のようなものなのだ。
一度恐怖が根を張ればそれは子供の心をじわじわと締め付ける。親は簡単な方法を手放せず暴力に頼りきりになる。

暴力の境界線は酷く曖昧なものになり「躾」から「支配」へと変わっていく。
親は「やっては行けないことを抑制させる暴力」から「意にそぐわないものを止めさせる為の暴力」へ。
子供は「悪い事をしたら怒られる」から「なにかしたら怒られる」へ。
ここまで来てしまうと健全な関係では無い。
親は自分がしたくないことを子にさせるようになる。なぜなら指示を出しながら舌打ちするだけで子供は殴られたくない思いで動くからだ。
子は何が地雷になるか分からないので喋らず、笑わず、顔色を伺い続ける。
こうして親にとっては簡単に言うことを聞く都合のいい子供ができあがる。

この暴力コミュニケーションは毒親にとってはいい方法のように思えるだろうが欠点がある。
自分が暴力を振るっている人間は自分の駒などではなく一人の独立した人間であるという視点が欠落していることだ。
他人を人として認めていないような接し方をしていれば必ずいつか我慢の限界が来る。その発露が私の場合このような絶縁状態に至らせたのであろう。
父親は既に離婚、その際引き取ってくれた叔母とも金銭トラブルで絶縁。晴れて今回母親との絶縁を経て約30年をかけて開放されたのだ。

高校時代からの夢だった完全絶縁を達成した心境は物悲しいものだった。
開放感からどうにかなってしまうのではないかと心配していたから意外な結果だった。

絶縁を考え直そうと思わせてくれない親に失望し、売り言葉に買い言葉で絶縁を飲んだその短絡的な思考を憂い、こんな選択をしなければならない人生を嘆いた。

好きで絶縁をしたかった訳では無い。これはきっと世の絶縁経験者も同じことを思うだろう。
ただ、せめて理想とまではいかずとも普通であってくれればこんな選択はせずに済んだのだ。

私だって普通でいたかった。
両親と話がしたかった。
休日にお出かけというものをしてみたかった。

だが現実には暴力で支配し、思考力を奪い、搾取しか考えていない親がそこにいた。
子から金を、尊厳を、人生すらも奪おうとする親がそこにいた。

働いた金を全て奪われたら、暴力で意見を封殺し自立を罰せられたら、子に身体を売らせて金を得ようと考えられたら逃げるしか選択肢はなかった。

ただ逃げると言っても難しいもので人の考え方は環境に大きく左右される。
ブラック企業の人間が辞める選択肢を見つけられないように、ブラック家庭の人間もそんな選択肢は見つけられない。先程我慢の限界は絶対に来ると述べたが、人によってはそれの発露が自殺や親を殺すことだったりもする。それ以外の選択肢が見つけれず逃れるには終わらせるしかないと考えてしまう。
私は運が良かった。学校で、インターネットで、職場で色んな価値観に触れて矯正する機会があった。

この文章が日の目を浴びるかは分からないがもし同じ境遇で悩んでいる人がいれば他人の価値観を積極的に取り入れて見てほしい。世界は一気に広がるはずだ。

今回の絶縁は我慢の限界であり、私の価値観では到底容認できない悪行を見た故の行動だ。
未来の私がどう思うかは分からないし復縁をするかどうかも分からないが、この感情だけは忘れずにいて欲しいと思う。

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