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金井美恵子「夢の切れはし」

金井美恵子くらいになると、何を書いてもいいのだろう。文学的感性の乏しい僕には、サッパリ分からんものだった。

私は通りで死んだ母と出会う。その通夜の夜見たポニーに跨った猿の競馬の夢を思い出す。また母のワンピースの生地の連想からズロースの話になって、その作り方が延々語られて、それが子供の頃母が銭湯帰りに見たお化けの話になって、その銭湯の話があった後、小僧のお化けを見た母はその母さんと家に帰って布団に入る。私は母が通りからどこにいくのか思いを馳せながら列車の車窓の景色を思い、多幸感に包まれ、そして新幹線の窓際の指定席にいるのに誰にも見られていないと気づき安心する。

我ながら何を書いているのか分からない。題名が「夢の切れはし」だから、脈絡がないつったら、それはそれでいいちゃいいのだろう。か?

「夢」って書いてない方がいいよな気がした。「夢」って書くことで、読み手はああ夢なのねって、解釈の逃げ道ができてしまう。「夢」でないなら、読み手は激しく解釈を始める。勿論「夢」は現実に起こったことの頭の中での交通整理だいうフロイトさんの説はあるにはあるが、その作業を通ったものを見せられるより、今現実に作者に起こっていることがこれなのだと語ってくれる方が、解釈のファイトが湧く。湧かない?
ああ聞こえる。解釈なんぞしちゃいかんのだ、と。これはこのままに身を委ねる小説なんだと。
でもね、文学的感性に優れてないもんが、まずするのは解釈なんです。その辺あるいてるオヤジやオバハン、アンちゃんネエちゃん、ジジイババアに、強制的に読ませてごらん。一発目に来るから。
「これ、何が書いてあんの?」

僕も一緒でした。

僕が解釈せずに身を委ねた小説はただ一冊。
猫田道子「うわさのベーコン」
これは・・・本物です。

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