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サンドイッチとウィンナー 1


 あらすじ

 私立中高一貫の女子校に通う知子は、自分の居場所を見つけるために、都立高校の受験を決意する。図書館で同じ受験生の関口と出会い、二人は共に勉強する仲となる。国語の苦手な知子に、関口は「トロッコ」を勧める。同じ頃、弟の昇の虐めが発覚する。昇もまた自分の居場所を見つけられないでいた。親友頼子の助力で昇は徐々に立ち直る。一方、家族の内情を知られた関口は、知子の前から姿を消す。自分を鼓舞し勉強を続ける知子。やがて知子は関口がなぜ尾山台高校に拘るのかを知る。そこは知子にとっても自分の居場所になるべき場所だった。多くの人に支えられて、知子は受験の朝を迎える。

本文

 私はどうしてここに居るんだろう。何してるんだろう。図書館の二階から、そこに見えてる狭い窓を見ながら、すうっと息を深く吸ってみる。そして、ゆっくりゆっくり吐いてみる。七月になったばかりの空は、切ないくらいに澄んでいて、白い、薄い雲ばかり速く流れてて、私の思いはそこにただ、ただ沈んでく。
 生きてなんかいない。私は、今、死んでる。十五歳の私が、何者でもないことなんて分かってる。分かりすぎるほど、分かってる。でも、若い自分なら、若いことしか取り柄がないなら、無謀な、どうしようもないようなエネルギーとか、今しかないっていうようなセツナな願いとか、なんかあってもいいように思う。
 でも、私には何もなかった。音楽とか運動とか、そういうものに熱中できる友達が羨ましかった。羨ましいなら、後からでも追いかけてやればいいのに、そんな勇気は自分にはなかった。馬鹿なプライドが邪魔をした。自分をお利口そうに祭り上げ、なんでもちょっと斜に構えて、それがカッコいいとか思ってた。汗かくことなんかダサくて、一生懸命を馬鹿にして、結局、自分だけが取り残された。ドンくさくて、信じられないって思ってたヤツが、結局、今、生き生きしてて、私みたいなのが、結局取り残された。今、勉強の真似事なんかしてるのも、結局言い訳だった。みんなへの、いや一番は自分自身への言い訳だった。
 私の通う学校は中高大の一貫教育の女子校で、でもだからって、私みたいな落ちこぼれは、高校に進学はできるけど、教師は私なんか完全に眼中になく、テストでどんなひどい点数をとっても、「吉田。今からだぞ。間に合うからな。頑張れ。努力は嘘をつかない」なんて、努力してないことを一番よく知ってるくせに、お為ごかしの励ましを言う。詰まるとこ私なんて、学校の資金援助要員で授業料さえキチンと払ってくれれば、これ以上の文句は言われないのだ。
 うちの学校では大学にそのまま進学するものは「負け犬」と呼ばれて、高校の卒業式では、他の大学に進学した同級生から、「がんばってね」と同情の言葉を投げかけられるそうだ。それは最大の屈辱だ。「がんばってね」と言って、「ごめんね」なんて言って、彼女たちはルージュを引いてアイシャドウ描いて、有名私大へ進学していく。なんだ、結局私大か、しょせん国英社か、理数まではまわらんか、などと言っても全くの「負け犬」の遠吠えだ。私大だろうが何だろうが、うちの大学よりも少しでもいい大学に進学できれば「勝ち組」なのだ。
 そんな雰囲気は既に高校進学から用意されてて、こっから他学に行く者はさすがにまれだったが、でもこの時点で英語ができないとなったら、大学進学を待つまでもなくもはや「負け犬」だった。私の未来は暗黒なのだ。自慢ではないが、実際恥だが、中学三年の私にとって、一番の鬼門は英語であった。
 無意識のうちに鉛筆を鼻の下に挟んで頬杖をついていた。ぼーっとしてる時のいつもの私のポーズだ。最初は、身を入れて聞いていた授業がだんだんとつまらなくなっていって、そんなお客さんな私に、注意さえしない教師へのイカレた反抗的態度でもあったが、教師は空気みたいに私をスルーして、いつかそのポーズが習い性の癖になってしまっていた。
 その時、プッと小さく吹き出すような音がした。向かいの席の同年齢くらいの男の子が、にやけた顔で私をみていた。ハッとして鼻から鉛筆を落として頬なんか赤らめる。なんて、残念でした。私はそんなにウブなんかじゃありません。鼻鉛筆のまま男の子をジロリと睨んでやった。男の子は、「おお怖」みたいな顔をして、問題集に戻っていく。英語の辞典が開いて置いてあるから、それ系の問題集だろう。全くクソいまいましい。英語得意なヤツってイカれてる、と思ってみる。恥ずかしげもなく「オウ! ワンダフォー」とか言える奴でないと、英語は上達しない気がする。アップルをナッポーとか平気で言える奴。私には無理だな。「ケッ」と男の子に向かってワザと言ってみる。男の子は聞こえない振りをして、やけに白い、長い指をサラサラと動かしていた。

 男の子はそれから顔をあげることなく、黙々と問題を解いた。辞書をめくる音と鉛筆を紙にこする音、消しゴムをかけるときの微かな振動。私は見るともなくそんな男の子を眺めていた。自分でも問題は解くが、すぐに飽きてしまう。それはつまり、英語に興味がないからだが、まあ、勉強全般に興味はないが。それから、なぜコイツはこんなに熱心に問題を解くのか、素朴に疑問に思った。なんて答えるだろう。高校にうかるため。自分の将来のため。もっと単純に英語が好きだから。どういうだろうか。その答えを直接に訊いてみたいような気がした。
 真昼の日差しが私の机に届いてきて、カーテンを引くついでに、休憩室までコーヒーを飲みに行った。お昼を過ぎていたから、別にもう帰ってもよかったけれど、何となくやり残したことがあるようで躊躇われた。「やり残した」って、勉強は全部やり残してはいるんだが。
 休憩室には誰もいなかった。自動販売機で百円のブレンドを買って、ソファーに座って飲む。寝覚めのように働かず冴えない頭に、少々のカフェインを入れたところで 最早どうにもならず、私はただぼーっと座っていた。
 そこへさっきの男の子がやってきた。百円でオレンジジュースを買って、向かいの椅子に座る。持っていたサンドイッチとジュースをテーブルに置いて、こっちを見る。私は慌てて視線を逸らした。フッと笑うような息の洩れる音がして、視線を戻すと、まだ男の子が私を見ていた。
「勉強、嫌いなんだね」
 そう言ってなんか嬉しそうにニッコリする。無視していると、
「でも、やんなきゃとは思ってるわけだ」
 尚も無視していると、
「思ってはいるけど、さっぱりやらないわけだ 」
 と、さも面白そうに言う。とうとう耐えきれなくなって、
「なによ」と目をむくと、
「いや、別に」とサンドイッチを頬張る。
「あんた、自分が勉強できると思って、私のこと馬鹿にしてんでしょ」
「僕が? まさか」と意外そうに顔をした。「なんで僕が見ず知らずの君を馬鹿にしなきゃなんないんでしょうか
 全くクソ忌々しいヤツ。眉をひそめてコーヒーをずるずる啜ると、
「サンドイッチ、食べる?」と訊いてきた。 
「なんで」
 思い切り不機嫌に言ってみる。
「なんでって、お昼だから、お腹すいてるかなって思って」
 あっけらかんというのは、こういう言い方を指すんだろう。
《アッケラカンノカー》
 お父さんが酔っぱらうとときどき言うフレーズを思い出す。ますますムッとしながら、不覚にもサンドイッチをチラ見してしまう。コンビニのじゃなくって手作りだった。一個一個丁寧にラップが掛けてある。キュウリのサンドイッチが目に入る。美味しそうだ。と、お腹が鳴った。
 こんな時に。
 私は怒り顔のまま顔を赤くした。
「お腹の方は欲しいって言ってるみたいですけど」
「うるさい!」
 乙女の心はデリケートなんだ。例え腹が鳴ったって、気づかない振りをするのがデリカシーじゃないか。男のくせに。私はデリ関係にはウルサイんだ。
 席を立って、二階に向かう。
「おーい、コーヒー残ってるよお」
 憤然として荷物をまとめ、どたどた図書館を飛び出した。自転車を漕ぐ足に自然と力が入る。
 なんだあんなヤツ。なんだ、なんだ馬鹿野郎! なんなんだ!

 月曜日も腹が立っていた。あんまり腹が立っていたんで、朝の教室で、早速前の席の頼子に話した。もちろん、お腹が鳴ったことは内緒にして。
 頼子の反応は意外なものだった。
「ふ~ん」
と細い目をして私を薄く見る。
「何よ」
 ちょっと気おされたように、私は言葉を切った。
「知子さあ。それ自慢」
「自慢? 自慢って何?」
「あんたさあ、私に男っ気がないからって、それ、遠回しに自慢?」
「な、なに言ってンのよ。自慢なわけないでしょ」
 言葉と感情と裏腹に、なぜか顔が赤くなる。赤面症か、私は。
「そっ。ならいいけどさ」
「なによ。聞き捨てならないわね。なんで私がーー」
 赤くなったのは怒りのせいだと、私は自分に納得をかけた。でも、ほんとか。マシンガンのような早口で頼子を追いつめながらも、「ほんとか」の言葉は、私の中で木霊した。頼子は両手を挙げて降参のポーズ。
「わかった、わかった。白旗あげるよ。誤解してスマンかった」
「ま。まあ、わかりゃいいのよ」
 頼子はそのまま両手を頭の後ろに回して、あ~あ、と言う。それ、どういう意味って訊くと、
「怒んないでよ。あたしゃ、単純にうらやましいんだから」
「うらやましいって!」
「だから怒んないで聞いてったら。」
「怒んないわよ」
「だってさ、私、この三年間男子と話なんかしてないし」
「矢ガモと話してるじゃん」私は、くたびれ担任のあだ名を言った。
「矢ガモ、男子じゃないし」
「いちおう男だぜ。三十二とか」
「認めんし」
「そだな」
「あ~あ。私も知子みたいに男子から話しかけられてみたいもんだ」
「だから」
 いや、わかった、わかったと私を手で制し、チャイムが鳴ったのを機に、頼子は黒板の方に向き直る。
 鼻鉛筆を十二回し、熟睡を二度し、ノート一頁を落書きで埋め尽くし、当てられて答えられないことを三度して、その日一日がようやく終わった。
 今日もソッコーで帰るべしと、帰りの挨拶が終わって鞄に手を掛けたとき、矢ガモと目があった。首をちょっとすくめるように挨拶し、二歩踏み出したところで、「吉田ァ」と気弱に呼び止められた。「ハァ?」と露骨に嫌な顔をしたいところだがグッとこらえて近づくと、
「ちょっと相談室、来い」
と言い残して、教室を出て行く。仕方なく後をついて歩くと、クラスメートたちはにやにや私を見て、中には両手を合わせて「ゴシュウショウサマ」と口パクするヤツまでいる。
 相談室の席に着いて、「なんですか」と、言われることのおおよその察しはつくが、一応訊いてみる。
「お前、やる気、ある?」
 表情一つ変えず、「これいくら」と店員にでも訊くように矢ガモは言った。
 ネクタイ趣味悪ィなあ。スーツもよれよれだし。髪に油くらいつけろつーの。などと心の中でいちゃもんをつけつつ、ここも一応殊勝なふりで、
「まあ、ぼちぼち」
と答えてみる。
「ぼちぼちねえ」
矢ガモは出席簿と学級日誌を縦にしたり横にしたりしながら、言葉を探している風だった。
「俺は中学部の教師だから、高校部へはいけないが……」
 当たり前の周知の事実を言う。うちの高校は「そこそこレベル高し」だから、まだ矢ガモの若さでは務まらんだろう。
「だから、あと半年で終わりだが……」
「はあ」
「お前も四月から高校生だな」
 はい? 何が言いたい。授業態度のことではないのか。いつもとなんだか空気が微妙に違う気がする。顔をクエスチョンマークでいっぱいにしながら、まあとにかくお説教には違いなかろうと温和しく聞いていた。
「知っての通り、うちの高校はレベルが高い。といっても国立がチラホラ、私大が多いが、六大学なんかにもけっこう受かる」
「はあ」
「それなりの授業だ」
「はあ」
「それで、どうなんだ」
「どうって、何がですか」
「やっていけそうか」
「はあ、なんとか頑張ります」
「頑張るって、お前、どう見ても頑張ってないがなあ」
 言われればその通りだが、他にどう言えばいい。なんだかムッとしてしまう気持ちとともに、嫌な予感がした。
「うちの高校は、それなりに授業が難しいってことだ」
「はい」と調子も改まる。
「いいか。授業を創るのは先生だけじゃない」
「はい」聞いたことがありますです。
「生徒も創る」
「なるほど」と適当な相槌をうつ。
「教室の雰囲気とか、受験に臨む空気とか、それを創るのは生徒だ」
 まあおっしゃる通りだろう。
「教室一丸となって、勉強する姿勢になれば、個人の力は二倍にも三倍にもなる」
「三倍ですか」
「いや、三倍まではいかないが、一・五倍とか、まあ一・二倍くらいにはなる」
「はい」
「だがな、まるでヤル気がない人間が教室にいると、いや、お前ってわけじゃないぞ、そうすると士気が下がるというか、何というか」
「実力の半分になる」
「そう。いや、半分は言い過ぎかな。0・八倍とか。いや、要するにだな、個人の持っている力の全てが出せない。こともある」
「その元凶が、私であると
「そうはっきりは言わんが」
「言ってますけど」
「いや、スマン。そういうことを言いたかった訳じゃないんだ。説明の順番が悪かった。あのな、お前も将来のある身だから、お前の人生はお前が一番いいふうに生きられるのが、お前にとって一番幸せなんじゃないかとだな」
「何おっしゃってんですか」
「要するにだな」
「進路を変えてみてはってことですか」
 考えないでもなかった。うちの学校は無試験で高校へ上がれるエスカレーター方式だ。でも、毎年何人かの子は、学校を離れて他の高校へ行く。
「いや、変えろとまでは言ってない。お前にとって一番ベストの選択がうちの高校か、もう一度、考えるのもいいんじゃないかとな……考えれば、身も引き締まるだろ。少しは勉強に真剣になるだろう。このままいくとだな、そういう可能性もという話だ」「わかりました」
 席をたった。不思議と腹も立っていなかった。矢ガモは脅しのつもりだろうが、言うことも、もっともな気がした。うちは高校からでも入学生をとる。それなりに試験は難しいらしい。先取りで高一の内容まで進んではいるが、高二の半ばには新入生も中学部出身者と遜色のない学力になるという。それだけ新入生は優秀なのだろう。オチコボレは決まって附属中学の出身者なのだ。
「吉田」私の背中に矢ガモが言った。「お前、何したいんだ?」
 その問いかけには返事をせず、「失礼しましたあ」と相談室を出た。

 教室に戻ると、頼子達数人がまだ残っていた。頼子はもちろん私を心配してのことだろう。他のメンバーは掃除当番で、今帰るところらしい。頼子も含めて、鞄に荷物をつめている。「どうした?」と頼子が訊いてきた。
「別に。勉強しろってお説教」
「ふーん。うちはエスカレーターだから、そんなにガツガツしなくてもいいのにねえ」
「まあ、うち以外の進路もあるって」
 頼子の手が止まる。
「何それ。辞めろってこと。ひっどーい!」
「高行くと授業も難しくなるし、ついてこれるか心配らしいね」
「ひどいよ、それ。ねえ、ひどいと思わない?」
 頼子は勢いで振り返り、手近にいた後藤さんに同意を求めた。相手が悪い。言ってしまってから、頼子もシマッタという顔をする。
「私に訊いてる?」後藤さんは私を見る。「感想言ってもいいけど、後でゴチャゴチャ言わないでよ」
「ゴチャゴチャってなによ」
すかさず頼子が反応する。
「人にものを訊いといて、そんなケンカ腰やめてくれる?」
「ケンカ腰でなんか訊いてねえよ」
「いや、もういいから」と私は頼子をなだめる。
「だって」と眉を寄せて、頼子が言葉に詰まる。後藤さんはおかしそうに私たちを見てから、「じゃ、言うわ」と口を開いた。
 ああ、と思う。いいことなんて言うわけないんだから。後藤さんは美人で、頭がよくて、学年でも成績上位者で、今は引退してるけど、この前までバトン部の部長で、バトン部は全国大会の常連であるわけで、加えて素行もいい、家庭もいい、何というか、私と違ってマア鉄板なわけで、普段は私なんか鼻も引っかけてもらえない。というか、私も引っかからんが。
「うちは学校に籍を置いたまま、他校を受験してもいいって知ってるでしょう」
 私は頷く。普通、中高一貫校で途中で他の高校を受験する場合、もう学校には戻れない。だが、うちはその逆を行っている。他校受験ができて、自分の進路が保障されていれば、中学受験での志願者も多くなる。頭のいい子が抜けるのは痛いが、実際はそうは抜けない。抜けた子が、うちよりいい高校へ行けば、進学実績となり、中学部の志願者も増えるという仕組みだ。
「先生はあなたにあった生き方をしろって言ってるんじゃないかな」
「何、上から目線」頼子は歯をむく。
「そうじゃないわ。人はそれぞれだし、それぞれの進路があっていいって言ってるの」
「馬鹿は去れってか」
「そんなこと言ってない。確かに吉田さんは勉強苦手っぽいけど、クラスで吉田さん嫌いって人は誰もいないんじゃないかな」
 お前だろとは突っ込まず、聞く。
「体育祭とか自分で応援団買ってでるし、文化祭の準備だって楽しそうにしてくれる。修学旅行はみんなを盛り上げてくれて、しおり作りみたいな地味な作業もしっかりする。でも、うちは私学だし、その辺の学校行事は熱くならないでしょ。そういうのって公立の方が盛んだし、そっちの方が吉田さんに合ってるんじゃないかって先生は言いたかったんじゃないかな」
「何、知ったか言ってんだよ」
 こっちが先に訊いたんだからと、いきり立つ頼子をなだめる。熱くなる頼子とは裏腹に、後藤さんの言葉に妙に納得していた。小学校の同級生に誘われて、何回か行った公立の学校行事を見て、私は正直うらやましかった。金はかかっているがうちの合唱コンクールにしても運動会にしても、なんだかパターンが決まっていて、やらされてる感じが強かった。後藤さんみたいにサメてる人もいたりして、結局何をやっても盛り上がりに欠ける。私もなんだか疲れてしまった。年を追うにつれ、いろんなことに感動できなくなっている自分がいた。「要は学校に何を求めるかよ。私は、正直、大学に行ける学力をつけてくれるのとバトン部が魅力だから、うちでいいのよ。先生はあなたはどうなのか訊いてるのよ。別に授業の邪魔するわけじゃなし、私はあなたがいたっていなくたって授業自体は変わらないと思う。加茂先生の授業は教師と生徒でつくるなんて、そこは私ロマンチックだと思う」
 そんなふうに見られてたんだと思った。自分を何でもいい加減にしてしまう人間だと思っていたが、言われてみると確かに学校行事で私ははしゃいでたかもしれない。部活も授業もつまらないと思っていたからそこでしか発散できなかったんだろう。みんなのためとか、そういうんじゃない。ただ、楽しそうだったからそうしただけだ。それが、そういうふうに見られてたのか。
 頼子と学校から帰る道々、そんなことを考えてた。頼子はそれを誤解して、「気にすることないよ」とか「後藤さんに、あたしら下々の気持ちなんてわからんよ」などと慰めてくれる。私は頼子に言った。
「頼子は高校で何したいの」
「えっ。私? 私はソフトボール馬鹿だから。それしかないから」
 頼子はソフトボール部の一番でセンターだ。足が速い。ルールとか細かいとこはわからないが、ヒットを打って走る頼子はかっこいい。背走してボールをキャッチしてすばやく内野に投げ返す動作はほれぼれする。頼子にはソフトボールがある。
「なんで、頼子は私なんかとつきあってくれるの」
「なに。やだな。知子、どうしたの」
「だって私なんか何の取り柄もないもの」
「取り柄はあるよ。話してて面白いし。あれ、何つったけ、馬がどうとか」
「馬があう」
「それそれ。それに唯一同じ小学校の出身だろ」
 ソフトボールに話をふったので、頼子は最後の公式戦のことを夢中で話しだす。七月十日の日曜日。区の総体だ。都大会にはつながらない大会だけど、頼子は今、この日にかけている。期末テストの一週間前で部活停止だが、頼子は夜走って、素振りも欠かさないらしい。
「うちの高のソフト部は弱っちいんだけど、先輩も残ってやってるし、高行くの、結構楽しみなんだよね。総体はさあ、去年先輩達の代で準優勝してんだ。区だけだから参加校十二校のちっちゃい大会だけど、そういう流れがあんからさ、まあ、準優勝は無理でも決勝の三校リーグには出たいんだ。その為には十日の予選トーナメントで二回とも勝たなきゃなんないわけよ」
 夕焼けチャイムが鳴って、ばらばら小学生達が走って家に帰っていく。歓声をあげたり、競争したりしながら、私たちを追い越していく。手にしているグローブやバットをめざとく見つけて、
「おっ、少年。ベースボールか。道は険しいぞ。頑張れよ」
 そんな声をかけて、頼子はいい気持ちになっている。
「応援行くから」
「来て来て」
「ぽんぽんでも持ってくか」
「足あげたりして」
「そうそう」
 二人は笑った。でも私の笑いは、心の底からの笑いではなかった。

 玄関を開けると、昇がおもちゃの自動車にまたがって、私を見上げた。それは無視して、奥のお母さんに向かって「ただいまあ」と声をかける。「お帰り」の声を聞きながら、靴を脱ぐ。昇はその場を動かず、変身ベルトのスイッチを入れる。キュイーンキュイーンと効果音がして、「スイッチ、オン」という野太い声がする。
「うるさい」
 言い捨てて、昇をまたぐ。お尻を何かで思い切り突かれた。「痛い」と思わず言って下を見ると、おもちゃの剣を持って、にやっと昇が笑う。無視して、頭をはたく。
「ダークモンスター。ここは、とおさん」
「うざい!」
 まったく何でこんなに可愛げがないんだろう。わが弟ながら、ほんとに嫌になる。台所のお母さんの後ろをすり抜けて冷蔵庫を開ける。牛乳を注ごうとして、口がギザギザに裂けているのに気づいた。
「やだ。昇でしょ」
「さっき開けてたから。こぼさないようにしてよ」
「まったくもう」
とグラスに注ぎながら、口が薄く黒く汚れているのに気づいた。注ぐのを途中でよして、まじまじと見る。
「なにこれ。チョコレートだ。あいつ、口つけて飲んだでしょ」
「またやったの」
「昇! あんた何やってんのよ。口つけて飲んじゃダメって言ってるでしょ。信じらんない」
 昇が玄関からダイニングに駆け込んでくる。
「いたな。タタカイするぞ。ダークモンスター、こい」
 ダイニングにはお父さんが寝ころんでテレビを見ている。「おう」とか言いながら、視線はテレビに釘付けだ。
「ダークモンスター、こい」
「おう。このニュースが終わったらな」
「もう、お父さん。タタカイしようよ」
「昇! 口つけて飲んだでしょ」
 昇は私を一切無視して、お父さんの背中あたりをボンボン蹴っている。「痛てえな」とか言いながら、お父さんは動かない。そばにビールのロング缶が置いてある。ステテコ半袖シャツで、見るからに情けない体型だった。
「にゅーすおわりにして。タタカイしよ」
「あん。次のニュースが終わったらな」尻をかく。
「昇! 聞こえてんの!」
 首だけ回して、お父さんがこっちを見る。
「知子。お帰り」
 のんきに言う。私は怒鳴るのを諦めて、牛乳の代わりに麦茶を出す。まったくなんて家庭だ。返事もせずに麦茶を飲んだ。
「夕飯、お手伝いしてくれる」
「疲れてんの」
 すぐに部屋に入る。鍵を閉めてベッドに寝ころんだ。部屋の外ではタタカイが始まったらしく、どったんばったん喧しい。「静かにしなさい。下の階に迷惑でしょ」「お前、わざとビールけっただろう」「いいたいことはそれだけか。ダークモンスター」「静かにして。知子ごはんよー」「許さん。お父さんの唯一の楽しみを。絶対にゆるさん!」「聞こえてんの。知子! ご飯よお!」枕の中に顔を埋めて、頭の中のイライラのとげとげをなんとかなだめようとする。しかし、なんともならなかった。
「ご飯いらない! 気分悪い!」
 叫んで、ヘッドホンをつけた。ボリュームをいっぱいにして、他に何も聞こえないようにする。仰向けになって天井を見る。なんでこうなんだろう。あたしの家ってなんでこうなんだろう。喧しくて。下品で。人の気持ちなんか何にもわからなくって。もう嫌だ。ほんとに嫌だ。
 矢ガモの顔が浮かんだ。「人の幸せはいろいろだ。進路を考えたらどうだ」後藤さんの顔が浮かぶ。「先生は、あなたが一番輝ける場所を探してくれてんのよ」ほんとうかなあ。ほんとにみんな、ほんとのことを言っているのかなあ。考えながら、私は目を閉じた。大音量の音楽になんだか頭が重くなってきた。ヘッドホンをはずすと、もうさっきの大騒ぎは聞こえない。そのまま私は眠ってしまった。
 起きたら十時半だった。お腹がすいた。ダイニングに行くと、お父さんだけが起きていて、ちびちび日本酒を飲みながらテレビを見ている。
「酒ばっか飲んでるね」
 いい具合に酔ってるらしく、赤い顔をしたお父さんは、「おっ、起きたか」と立ち上がった。
「飯、あっためてやるよ」
「いいよ。自分でする」
 私は台所に行って、冷えたおかずを電子レンジで温めた。お父さんは、テーブルに座って、こっちを眺めている。テレビを消した。
「何、待っててくれたの」
「反抗期もいいけど、定時で飯は食ってくれよ。片づかんし」
 うちでは、皿洗いはお父さんの仕事だ。お母さんは昇といっしょにとっとと眠ってしまったんだろう。
 ご飯をよそってテーブルに着く。お父さんと向かいになった。
「なんか、あったか」カップの日本酒を舐めながらお父さんが訊く。
「なんも」
「嘘つけ。顔に書いてある」
「なんて」
「学校で嫌なことがありましたって」
「ないよ」
「ほんとか」
「ねえ、なんでみんな本当のことを訊きたがるんだろ」
不意に考えてもみなかった言葉が出た。お父さんはちょと難しい顔をした。
「お前、むずかしいこと言うな」そのまんまだ。
「ううん。何でもない」
「本当のことねえ」
 言いながらカップに口をつけ、天井を見る。カップを置いて腕を組む。またカップを持って天井を見上げる。
「もういいったら」
 チンジャオロースを頬張る。お母さんに「おいしい」は禁物だ。思わず言ってしまうと、週に一度は必ず食卓に載るようになる。チンジャオロースは、今お母さんのマイブームだ。ほんとはもう飽きている。でも言えない。ほんとのことを言うのって勇気がいる。ほんとは私ーー。
「俺はあんま聞きたくねえな。言いたくもねえしな」
「思ったことぽんぽん言うくせに」
「ばかやろ。お前は俺のデリカシーがわからんのだ」
 デリカシー。図書館の男の子の顔が浮かぶ。あの子どうしてるんだろう。長い指でさらさらと問題を解いていたあの男の子。
「でも、お父さん。聞きたがったじゃない。学校でなんかあったかって」
「まあ、そりゃな。なんていうか挨拶みたいなもんだな」
「学校辞めたいの」
 父の目が点になった。またカップに口をつけて激しくむせる。
「もう汚いなあ。唾が飛ぶでしょ」
「お前、辞めるって。そんな軽々しく言うなよ」
「お金出してくれてるお父さんには悪いと思うけど」お金のことなんか全然考えて無かったくせに、口が勝手に動いていく。「私立、合わないみたいなの。ずっと考えてたの」また嘘だ。今考えたくせに。「もういいかなって。このままズルズルいってもいいことないような気がするんだ」口から出任せだ。深くも考えていなかったくせに、重みのない、ケーハクな言葉が次々と出てくる。
 お父さんは黙って聞いていた。日本酒は飲んでる。あと三分の一。こっからが旨いんだ。残り少ない酒をいかにして長い時間もたせるか、そこがな考えどころだ。いつも言って、誰も聞いてない言葉が蘇る。
「ほんとうのことって、それか」
 黙って頷いた。
「お母さんには言ったか」
首をふる。心の中がどきどきしていた。預けようとしている。よく考えもしないで、お父さんにどうすればいいか預けようとしている。私は卑怯だ。
「そうだなあ」と言いながら、お父さんは眼鏡をとった。テーブルに置いてしげしげと眺める。「まあ、もう少し考えろ」
 思わず吹いた。がっかりするより、なんだかホッとした。
「なんだお前、嘘か」
「嘘じゃないけど。でも、こっちが真剣なのに、お父さんってホントいい加減ね」
「ほんとだ」とお父さんも笑う。
「まあ、もう一度よく考えて、それでも考えが変わらんなら、また言え。お母さんには、まだ言うなよ」
「うん」と頷く。
「それでだな、相談だが」
「なに」
「お父さん、コンタクトにしようと思うんだが、どうかな」
そっち? 考えてたの。テーブルの上の眼鏡を見る。無性に可笑しくなって、声を上げて笑った。
「おい。起きるよ」
今度は声を殺して、私は笑い続けた。
 遅い夕食を食べ終えて、「今日は洗ってあげるよ」と皿洗いをした。お父さんは「おう、サンキュ」と言って、テーブルから私を見ていた。
「昇がな」と話しかけてくる。「こないだの日曜、いっしょに公園に行ったんだよ」ほおづえをついて、話し続ける。「あいつ変でな。俺はサッカーボールとか、フリスビーとかバットとかいっぱい持ってったわけよ。おい、聞いてる?」
「聞いてるよ」
「それでな。まあたまには親子の触れあいっていうやつをやってみようって思ったわけよ。聞いてる?」
「聞いてるったら」
「そしたらアンニャロ、お父さんはここにいてって、ずうっと一人で走っていきやがんの」
「公園って城代公園?」
「そう」
城代公園には、広い運動競技場がある。トラックがあって一周400メートルはあるだろう。よく近所の高校の陸上部が走っている。トラックの内側は芝生になっていて、休日には親子連れがボール投げなんかしてる。わたしは一人でトラックを駆けていく昇を想像した。
「小せえくせして、それが遠くに行くんだからもっとチッコクなってな。ときどきこっち見て、俺が言われた場所にちゃんと座ってるか確認するわけよ」
ケケケと笑う。
「そんでな。俺のせっかくはりきっていった気持ちをどうしてくれんだって話よ」
「昇相手でしょ」
「小せえからって、そりゃ人の道だろ。んでな、あいつが向こう見てる隙に、こそっと隠れてやったんだ」
「大人げないねえ」
「したら、あいつびっくりして、ものすごい勢いで駆け戻ってきやがんの。もうビービー泣きながら」
「で、どうしたの」
「木陰から飛び出して、親子の感動の対面よ」
へへっと鼻を鳴らす。
「ふうん。で?」
「続きか」
「そう」
「続きがあるってよくわかったな」
「だって話がオチてないからさ」
「おまえ、落語じゃねえんだぞ」
「で、どうしたの」
その後、昇はまたお父さんを座らせたそうだ。座らせて、またずうっと駆けていったそうなのだ。
「な、変だろ。あんな泣きやがったくせに、また駆けてくんだよ。ずうっと、一人で。それ見てたらな、なんだか寂しくなっちゃってな」
「誰が」
「俺」
「なんで?」
「なんでか、わかんないが、寂しくなっちまってよ。まあ、親なんてそんなもんだ」
「うん」
「じゃ、寝るわ」
時計は十一時半を指している。

 七月も二週目に入ると、本格的に夏らしくなってきた。気温もずんずん上がり、三十度を超える日も当たり前のようになってくる。街路樹の緑もその色を濃くして、空いっぱいに枝を伸ばし葉を蓄える。その中を、朝、自転車で走る。街路樹の陰に入るたび、痛いような日差しから逃れられる。涼しくなったり暑くなったりを繰り返しながら、駅に急いだ。駐輪場に自転車を置き、鞄を肩に満員電車に乗る。狭い中で無理矢理ノートを広げて、無駄なあがきをした。
 今日から三日間は期末テストだ。試験をやるまでもなく結果は見えているが、この一週間やるだけのことはやってみた。矢ガモに言われたからじゃない。後藤さんの言葉が気になったんじゃない。何が気になったかって強いて言うなら、それはお父さんの言葉だ。昇のことを話してて、ふっと寂しそうな顔をした。それがなんだか心に引っかかった。やるだけ。無理かもしれんけど、やるだけのことはやってみっか。教科書を広げて、一夜漬けをしてみた。ぜんぜん勉強が足りないのは分かってる。ただ、ぜんぜん勉強しないってことは、やっぱりお父さんに失礼なんじゃないかって思った。
 でも。一時間目の日本史から撃沈だった。なんか総合問題みたいで、最近の授業のことなんて全然出なかった。アメリカのペリーが黒船で来日して日本は開国しました。しかし、明治になっても、貿易額はアメリカよりイギリスの方が上回っていたのはなぜでしょう。なんて、わかるわけない。何言ってんだろう。意味わかんない。こんなことの連続だった。でも、答えられる問題は答えた。なるべく空欄がないように頑張った。いつもより解答用紙は黒かった。試験が終わるたび、あちこちで答え合わせの声があがる。ああ、ぜんぜん違う。聞かないようにして、次の試験の準備をした。
 そんな感じで三日間が過ぎた。そう言えば小学校の時、こうして勉強したなあって昔を思い出した。私立に入るには、小学校の勉強なんかじゃ全然足りない。ていうか、はっきり言って無駄。楽しいことみんなでしてても、これで点数とれるのって感じだった。ミニトマト作ったり、ビオトープ作ったり。だから、私立目指す人間は塾に行く。学校は息抜きの時間だ。まあ、荒れるわけだな。勉強できるヤツが授業を馬鹿にしはじめたら、その下に続く子ども達だってそうする。六年生の時は、はっきりいって授業がなりたたなくなっていた。でも、私には関係なかった。学校は息抜きの場だったから。勉強は塾でする。毎日九時十時までした。ああ、死ぬほどしたなあ。
 でもでも、私立に入れば安心だなんて幻想だった。安心どころじゃなくって、塾なみに勉強していかないと早い進度にはついて行けない。消化不良で次の単元に進み、それがずっと重なって、遂に私はオチコボレてしまったのだった。
 最後の試験が終わって、頼子が寄ってきた。試験は出席番号順に座るから、頼子とはちょっと席が離れてて、それにお互い次の試験の詰め込みに十分休みは全部使ってたから、ここ三日学校ではそんな話さなかった。
「知子。マジがんばってたでしょ」
「なんで」
面と向かってそういわれると、何となく恥ずかしい。
「なんか、ここ三日、目が真剣だったもん」
「まあね」
「矢ガモの話、気にしてる」
「んん。そんなんじゃないけど。ちょっとね」
「まあこれ以上詮索はせんが、今度の日曜憶えてる」
「試合でしょ。応援行くわ」
「サンキュウね」
頼子の頭はソフトの試合へとすでにシフトしている。親友なのに頼子の試合は数えるほどしか観たことはない。試合がつまらないんじゃない。応援だけに熱くなっている自分がなんだか惨めに思えてしまうことがあったからだ。でも、今回は違う。人はそれぞれだ。私は頼子じゃない。だから頼子が一生懸命頑張っていることと自分を引き比べて見るようなことはしてはいけないんだ。そう考えるようになっていた。
「あ~あ。でもその前にテスト返ってくんな。矢ガモなんてすぐ返すもんな」
 頼子は顔をぴしゃっと手のひらで叩いた。そう、テストが返ってくる。でもなんだかそれも楽しみなような気がしていた。別に他人と比べる必要なんて無い。私はわたしなりに頑張ったんだから。それが例え0点でも、まあ胸は張れないが、全部自分で引き受けられる気持ちがした。
 頼子の予想通り、翌日の国語の時間、矢ガモは早速答案を返した。私は四十二点だった。ちなみに頼子は五十三点。私はいつもより十点くらいいい。赤点にならずにすんでほっとした。と同時に、なぜか合ってたとこより、間違ってたとこが気になった。矢ガモは淡々とテストを解説していく。鼻鉛筆せずに、私は答案を訂正していった。

 日曜日。遂に頼子の試合の日が来た。
 一回戦。頼子の話ではピッチャーが速いらしい。
「ピッチャーだけのワンマンチームだから、とにかく塁に出れたら、うちに勝機はあるよ。だから先頭バッターの私がキーマン」
 頼子の言葉通りピッチャーの球はもすごく速い。ただコントロールはそんなによくなくて、ピッチング練習を見ていると、ボールとストライクが半々といったところだ。試合が始まって頼子がバッターボックスに入る前、チラっと私を見てくれた。引き締まったいい表情だった。
 頼子は早打ちしないで、見ていく作戦のようだった。ボールが先行してフルカウントまできた。ここで初めて頼子はバットを振った。ファウル。次もファウル。次も。粘る。ピッチャーは嫌な顔をしてちょっと間を置いた。ロージンとかいう白い袋を手をにとった。頼子は振り遅れているように見えた。後で聞いたら、お前、ワザとカットしてたのわかんなかったの、とか言っていた。まあ、あとからなら何でも言えるが。
 ピッチャーがまたプレートを踏む。頼子もバッターボックスに入り直した。いったい何食ったらこんな体格になれんのかみたいなピッチャーが、踏み込んで思い切り腕を回す。腰のところで手首が 蛇みたいにしなって、糸を引くような豪速球がホームベースに向かう。ボール来て! と私は思った。その瞬間、頼子はバットだけをホームベースに残しスタートした。まさか。いや、でもそう見えた。コツンとボールは勢いを殺され、ライン沿いを転々とする。少し下がり気味だったサードが猛然とダッシュする。頼子が走る。サードがボールをつかむ。投げようとしたとき、既に頼子は一塁ベースを駆け抜けていた。
 二番バッターは監督からなにか耳打ちされていた。
 タイムが終わって試合が再開される。何が始まるのかドキドキした。ピッチャーがボールを投げる。バッターがバントの構えをする。サードがダッシュする。遅れてピッチャーもダッシュする。頼子が走る。ショートがセカンドベースのカバーにくる。バッターはバントした。たださっきの頼子のバントとは違ってて、それは打つような強いバントだった。
「プッシュバント!」
 誰かが叫んだ。ボールはサードとピッチャーの間を抜けてショートが元いた位置に転がっていく。でもそこにショートはいない。ショートはセカンドベースに走っていたから。二塁を蹴って頼子がサードに走る。サードも回り、ホームに向かう。外野からボールが返る。クロスプレー。頼子とキャッチャーが、審判を見上げる。一呼吸置いて、審判の手が広がる。
セーフ。
頼子はの仲間たちとハイタッチしながらベンチに戻ってきた。私をみて手を振る。すごい。すごいなあ。私は素直に感激した。
 それからピッチャーはメロメロで、四球と死球を繰り返し自滅していった。頼子たちは一回戦を突破した。
「びっくりした。うまいねえ」
 試合の合間、寄ってきた頼子に拍手した。
「んなでも、ねえよ」と頼子は照れた。
「でもあれね、あのピッチャーもなんだか可愛そうではあるね」
  遠くの校舎の陰で、負けたチームがお弁当を食べている。無言で暗い雰囲気だ。頼子もそれを振り返って見る。
「知子。それは違うな」
「えっ」
「勝負ものは必ず勝ち負けがあるんだ。負ける方に同情するのは、相手に対して失礼だよ。だから、うちら相手がどんなに弱くても全力でやる。気を抜かない」
「じゃ」
「何」
「じゃ、100対0になっても、全力でやるの」
「やるよ。それで悔しかったら練習すればいい。勝負ごとってそういうもんさ。だから、私ら負かした相手をケーベツなんてしない。お互いよくやったって讃えたい。いちばん頭くんのはソフトボール馬鹿にしてるヤツら。いいかげんにプレーしたり、ヘラヘラ笑って試合するヤツ。いくら強くてもいくら弱くても、こういうヤツらは、もう絶対ケーベツするね」
 頼子はまだ汗が引かない。グラウンドの土をかぶった顔は、日焼けして日本人じゃないみたいだ。頼子のひとつひとつの言葉。なぜか私の心に刺さっていく。頼子がケーベツするヤツ。それは私かもしれなかった。
 二回戦。今度のチームは強かった。1番から9番まで気が抜けない。頼子は何度もファインプレーして、チームの危機を救った。ファインプレーの後のチームメイト同士のハイタッチ。まぶしいような気持ちで私はそれを見た。七回表。とうとう相手チームに得点される。あと攻撃は、七回の裏しかないのだ。うちは八番から。頼子に回る。祈るような気持ちで、私は試合を見守った。
 八番。ピッチャーゴロ。九番、三振。そして、一番、頼子。
 一球目、見逃し。ストライク。頼子は目の前にバットを掲げ、グリップを絞るようにしてから気合いを入れた。
「よし! こい!」
ピッチャーは頼子を見ない。この試合ずっと冷静だ。マウンドを足でならし、ロージンで手をはたき、帽子を直してキャッチャーのサインを見る。そしてモーションを起こして、投げる。
空振り。
頼子は尻餅をついた。誰も笑う者なんていない。声援を送る。うちのチームも。相手チームも。ピッチャーが再びモーションに入る。頼子が構える。そして、空振り。ーー三振。
 初めてピッチャーは両手を上げてガッツポーズをした。駆け寄るキャッチャー。内野手。たくさんの人。頼子は? 頼子はまだバッターボックスに立っていた。仲間達が駆け寄る。肩を叩く。頼子は笑顔を見せた。でも、泣いていた。
 私は頼子に何も言わないで帰った。あのチームメイトたちの中に入っていくなんてできなかった。この場では私はただの観客で、必死で戦った人達と同じではないのだ。

 部屋で勉強していると、ノックの音がして、お母さんが入ってきた。
「何」
「面談のプリント」
数日前に三者面談の希望日をきくプリントが配られた。その返事だった。
「珍しいじゃない。試験終わったのに、勉強なんかして」お母さんはちょっぴり皮肉を言ってから「えらいえらい。中三なんだものね。もうすぐ高校生なんだからガンバんなきゃね」と私をおだてる。
「ねえ、お母さん」
私は椅子を回して、お母さんの正面に体を向けた。
「私、受験したい」
言ってしまった。今日頼子の姿を見てから、ずっと考えていたことだ。今言っておかないと、もう言えない気がしたから。
「受験?」
お母さんは、話が飲み込めなくて、顔にハテナマークを浮かべている。
「受験って、高校の入学資格に試験とかあったっけ」
「そうじゃなくて、違う高校、受けたいの」
驚きでお母さんの目が二倍になる。
「何馬鹿なこと言ってんの」「受験したい」
「今勉強ができないからって、そんな変なこと言わないの」
「受験したいの」
「あんた、どれだけ頑張って入学したと思ってるの。小学校の時のこと、忘れたの?」
やはり予想通りの反応だ。急には無理か。作戦変更する。
「ちゃんと話、聞いてよ。うちの中学は高校に行ける資格を持ったまま他校を受験できるの。だから受験して落ちても行くとこはあるのよ」
ああ、とお母さんの顔が輝く。勘違いしてる。
「そう。頑張ってみたいわけだ」
「まあ、そう」
「で、どこ受けるの」
お母さんは有名私立の名前をいくつかあげた。
「まあ、なにごともトライだから。あんたがそうしたいんなら応援するわ」
やっぱり勘違いしてる。
「じゃなくて」
「違うの。あんまり遠いと通うの大変よ」
「そうじゃなくて、公立」
言葉がない。というのはお母さんのこういう顔を言うんだろうか。
「なに言ってんの。公立って、都立行きたいの?」
「そう」
「じゃ、なんのために中学受験して、あれほど頑張ってきたのよ」
「頑張ってないよ」
「頑張ったでしょ。夜の十時十一時まで勉強して」
「それは小学校の時でしょ。今、私ぜんぜん頑張ってないもん」
「今の学校で頑張りゃいいじゃない」
「違うよ。ダメだよ。今の学校じゃ」
「あなた、易きに流れてる、学校の勉強についていけないんなら、塾行く? いいわよ。それなら、いい」
「そんなんじゃ、ダメなの」
「何がダメなの?」
うまく説明できなかった。勿論、都立に行けばそこはパラダイスで、自分が生き生きできて、なんて甘いこと考えたわけじゃない。でも、今よりマシかもしれない。きっとマシになる。
「私目標がないのよ」
「そんなのない人となんかたくさんいるわよ。勉強しながらつくればいいじゃない。今の学校のどこが嫌なの。勉強しなかったのはあなた自身の問題でしょ。学校の問題じゃないでしょ」
それはお母さんの言う通りだった。今の自分があるのは、これまでの自分の生活がそうしたのだ。それは言い訳できない。それを引き受けないで都立を受験したいなんて言うのは、お母さんの言うとおり「逃げ」なんだろうか。そうだろうか。分からない。
私は黙った。
「とにかく、これ先生に出しといてよ」
お母さんは面談の紙を置いて出て行った。
私はずっと考えた。ずっとずっと考えた。そして、一つのことを決めた。受験する。そして失敗しても学校には戻らない。

 その日は、お母さんと口をきかなかった。お父さんは仕事で遅くて、三人で夕食をとった。昇もちょっと元気がなくて、家の中は灯が消えたようだった。食事の後も部屋に戻って勉強した。やってもやっても進まなかった。問題を一つやろうとすると、それを解くためにさかのぼって勉強しなくてはいけない。幾つも幾つもそういう問題があって、これなら中一の勉強からしたほうがと思って一年生から始めると、なんだか易しすぎて時間が無駄に消費されているように感じた。つまり私の理解はマダラになっていて、知っていることと知らないですませたことが混在してて、ハカが行かないのだった。なんだか落とし穴がたくさんある道を歩いているようだった。よけて進むことはできる。でも、腹を決めて、中一からやっていくことにした。簡単な問題も必ず解いて、少しずつ進める。そうして知識を穴埋めしていく。
 九時を回った頃、お父さんが帰ってきた。きっとお母さんはお父さんに相談するだろう。お父さんはなんて言うかな。昇とお母さんが寝た頃を見計らって部屋を出た。案の定お父さんはカップ酒をチビチビやってテレビを見ている。
「受験するんだって?」
テレビを見ながらお父さんが言う。
「うん。都立」
「自分で決めたのか」
「そう」
「そうか」
テレビではお笑い芸人がおかしなことを言っている。お父さんはぜんぜん笑わずに、またお酒をチビッと飲んだ。私も突っ立ったままテレビを見る。
「知子な」
「なに」
「落ちたらどうする」
「落ちたらーー」
「落ちたら、また学校戻るのか。お母さんにそう聞いたけど」
「落ちたら、都立の二次受ける」
「戻らないのか」
「うん。お母さんにはそう言ったけど、戻らない」
「そうか」
テレビでは、熱いおでんを顔に当てられて、芸人達がヒーヒー騒いでいる。いつもは大笑いして見るくせに、お父さんは笑わない。なんだか涙が出そうになった。
「がんばれよ」
「うん」
「三者面談な、お父さんが行くよ」
「うん。ありがと」
私はお湯を沸かしてコーヒーを入れた。
「飲む? コーヒー」
「せっかくだけど、いらねえな。夜飲むと眠れなくなっちまうからな」
「お酒飲んでるしね」
「そうだな」
「ねえ、お父さんはなんでそんなに毎日お酒飲むの?」
「そうだな。寝るためだな」「眠れないの」
「眠れねえな」
私は熱いコーヒーを持って部屋へ向かう。
「知子」
「なに」
「冷房つけっぱでねるんじゃねえぞ」
「わかってる」
お父さんはとうとう一度もこちらを向かなかった。
 面談の日、私の隣にはお父さんがいた。矢ガモが成績表なんか出してなんか喋ってる。やがてお父さんが口をきる。
「先生。この間娘にアドバイスしていただいた件ですが」
「あ、はい」
矢ガモも少し緊張する。学校を辞めろと切り出したと受け取られても困るのだろう。ちょっと弁解した。
「いちおう機会を見て、うちの高校に進学する意志があるのか、全員にお訊きするんですよ。それで知子さんにもーー」
「それで、家でも話してみまして。この際、進路変更をしようということになりました」
「まあ、うちの学校は受験に失敗しても残れますしね。それで、どこの高校に挑戦するんですか」
矢ガモは持っていたボールペンをくるっと回した。
「申し訳ないんですが、学校は辞めます」
矢ガモがボールペンを取り落とす。
「えっ。といいますと」
「三年間、いろいろとお世話になりました」
「学校を辞めて受験するんですか」
「もちろん三月まではお世話になりますが」
「えっ、あの。まあ、お気持ちがそうなら、それはそうで仕方ありませんが。あの、もったいないですよ。君はそれでいいの」
矢ガモは私の顔を見る。
「はい。それでいいです」
言ってしまった。もう後戻りできない。校庭から、テニス部の練習する声がした。私は教室をぐるっと見回す。私のへこんだロッカー。ちょっと落書きしてある机。掲示板。蛍光灯。黒板。いろんなものが、すうっと私から離れていくような気がした。

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