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桐野夏生「聞こえたり聞こえなかったり」

連載第二回。一回目は読んでない。二回目だけで何か書こうなど、失礼極まりないが、新潮全部読む、のマイ企画の為、ご容赦願いたい。

漱石の「猫」だったと思うが、苦沙弥先生が適当に本を開いて読んでると、そんな読み方で面白いのかと訊かれ、面白いと答える場面がある。苦沙弥先生は筋を追ってるわけではないのである。筋以外にも小説の読みどころはあるのである。

桐野さんの第二回、読んでて上手いなぁ、と思う。植物人間になった妹の姉が、妹の旦那と、生命維持装置をはずすかどうするか話す場面である。

まず、人物描写が素晴らしい。描写することで、その人物の性格までも語ってしまう。二人は談話室で話そうとするが、そこには先客の初老の男がいる。二人と入れ替わりに男は部屋から出ていくのだが、この場面だけで、初老男のくたびれ加減や苛立ち、旦那の卑屈なくせに自己中な性格、姉の男たちへの軽い嫌悪感などが手に取るようにわかる。説明せずに場面の描写でそれらを語る。だから、小説時間が停滞しない。会話と地の文のバランスも丁度いい。会話ばかりに走ったり、思ったことを意識の流れで全部書いたりなどしない。だから、読むのが小気味いい。登場人物の感情の揺れも、発話部分と内面とのズレがキチンと距離感をもって表現されている。安心して読める。身を委ねられる。ともすると、自分が今、"読んでいる"ことすら忘れてしまう。ドラマに没頭するように読んでしまう。

小説の語りの技術に恐れ入るばかりである。だがちょっと考えもする。それは果たしていいことなのか。と。
桐野さんは絶対しないし、桐野さんの読者も誰も求めてないことを私は語ろうとしている。

作者の顔が見てみたい。

物語ではなく、いや物語はあっていいのだが、その物語の語りの熱の中に、作者の顔を見てみたい。

小説家は自分を出すのか隠すのか。自分を隠し小説に全てを語らせる作家がいる。逆に読んでいる最中に、作者の顔がどうしても浮かぶ小説もある。
困ったことに、どちらも面白い。

天邪鬼な私は、物語に溺れながら生身の作者を感じたいと願い、顔を出しすぎる作者には、もっとうまく小説で語れ、と思ってしまう。
誠に身勝手ではある。そうなのだ、常に読み手は身勝手な生き物なのである。

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