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ルッキズムを批判しながら、私はこれからもルッキズムに責め苛まれる

私はルッキズムが嫌いだ、果物の表皮のような容姿をさらっても人の本質は何ら知ることができない。どれだけ色艶の良い橙も、中身は美味しくないかも知れないのだ。反対に、どれだけ美味しそうなメロンも、熟れすぎて腐っているかもしれない。

しかし私は整形をした、ニキビケアの化粧品に何万ものお金を使い、美容外科に通う。これは私が世間一般の美しさに囚われ、そのスタンダードより上にいようと願うから。

ルッキズムとはなんなのか、美しさとはなんなのか、信念と相反する生き方をすることは罪なのか。そんなことが頭をかすめる。そんなことを今日は考えようと思う。

まず、ルッキズムとはなんなのか。Wikipediaを参照してみる。

外見のみを重視して人を判断したり、容貌や容姿を理由に差別的な扱いをしたりすることだ。 外見を意味する「Looks」と、主義を意味する「ism」を組み合わせた言葉で、日本語では「外見至上主義」と訳されることが多い。 

— Wikipedia ルッキズムの項より

やはり私はこの信念に共感することはできない。容姿や容貌で人を判断し、異なる扱いをする。人種差別やアパルトヘイトの歴史すら想起させる。しかし、私は同時に罪悪感を覚える。私自身も外見のみの美しさに囚われていないか、誤って人を外見で評価していないか。事実、一日、何百の人々と交流を持つ中でふと外見で判断することなどザラにある。それと同時に、何百の人々に美しくみられようとする私がいるのだ。

美しさとは主観である、しかし同時にUniversal Beauty — 普遍的な美しさが存在する。これは人々の主観に影響し、かつある種の規範ともなる。ゴミに溢れた週明け早朝の渋谷センター街のコンビニ前を美しいとしたならば、世界は汚れてしまう。美しさは主観と共に、客観なのである。

自身の客観を、美しさというスタンダードの上に載せようとすること、これはルッキズムに苛まれた行為なのだろうか。相反する信念に左右される私自身は不調法な存在なのだろうか。

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