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大人になればなるほど、大切なことを忘れてしまう。例えば、泣くということについて。

大人になればなるほど、大切なことを忘れてしまう。よく耳にする言葉だ。間違っていないと思う。なぜなら、僕自身がそう感じてしまっているから。子供の頃ってもっと純粋だった。例えば、「好き」という感情がとても直感的だったと思う。「なんで好きなのかわからないけど、好き」というように、気づけば勝手に心が動いている、そんな感覚。でも、大人になるにつれて本当に少しずつ少しずつ、合理的に好きが生まれることが増えていったように感じている。これは「好き」「嫌い」という話だけではなく、「どちらの道に進みたいか」という選択を迫れた多くの場合においても同じだ。それには、教養が身についたことや人間社会の中で形成された自分の価値観など、さまざまな理由があると思う。8歳の頃と同じものを目にして「綺麗だ」と言えることは減っている。「面白い」と感じることも減っている。それは、一種の「慣れ」という側面もあると、僕は考えている。生まれも育ちも湘南の人がいたとしたら、その人は海に対する驚きや綺麗という感情は消えないにしろ、徐々に少なくなっていくと思う。

このように時間の経過に伴って自分は大切なことを忘れつつあると実感しているのだが、それを著しく感じるのは「泣く」ということについて。

みなさんは最近、「思い切り泣く」という経験をしていますか?僕はまったくしていません。というか、できていません。仕事でうまくいかないとき、自分がなかなか評価されず「またダメか」となるとき、思い描いていた人生とのギャップに「なんでなんだろう」と悲しくなるとき、将来に対してどうしようもない不安に襲われるとき。自分のなかでは、「泣く」という生理的反応に陥ってもいいと感じる瞬間なのに、なぜか泣けない。泣きたいのに泣けないことに、苦しさを感じることもある。だって、泣くとスッキリするじゃないですか。それは、頭でわかっているのに簡単にはそうさせてくれない自分自身がいる。不思議な話だ。

今の自分は映画やアニメの感動的なシーンに弱いことがわかっている。自分に降りかかる悲しい出来事では泣けないけど、周囲の人に関することや架空の話でもそこに泣ける要素があるなら、自然と涙が出てくると思っている。ちょうど1年と数ヶ月前にあったWBCの対メキシコ戦で村上宗隆選手がサヨナラの一打を放ったときは、思わず涙が出た。そのとき、自分自身のなかにある日々の辛い出来事もなぜか頭に思い浮かんで、それらに関する涙も一緒に出てくるという現象が起きた。たぶん、泣くためのキッカケが欲しかったのだと思う。「自分のことで泣くなんて、情けない」とか「俺は大人だから、そんな簡単に涙は見せられない」とか、心の奥底で一丁前に考えているんだと思う。そういう意味では、強くなったのかもしれない。

泣くととてもスッキリする。また頑張ろう、という清々しい気持ちになれる。だから、泣くってとても大切。大人は、キッカケが必要なんだ。休むキッカケ、地元へ帰省するキッカケ、泣くキッカケ。大人は、強い。責任感だってある。だから、自分で何かのキッカケをつくることは難しいのかもしれない。周りの人に助けてもらったり、声を掛けてもらったり、映画のようなカルチャーに触れるなかで自ら探しに行く必要があるのかもしない。一人は楽だけど、一人ではできないことがたくさんある。

この頃、泣きたい気持ちになることがあるのに、泣けない。まだGW後半戦ははじまったばかりだから、たくさん映画を観よう。脚本がある物語だっていい。いまはいろんな人の人生に触れて、きっかけをつくる必要があるときなんだと思う。

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