見出し画像

夕暮れの由比ヶ浜と津軽三味線

2022年3月、まだ肌寒い。
鎌倉は観光の足も少しずつ回復いるようで、活気がある。
しかし、海は広く、大きい。人がたくさんいるとはいえ、海水浴シーズンのそれとは、まだまだ比較するまでもない。

最近はじめたお稽古用の『津軽三味線』を持って、海へと出かける。
人に披露できるような腕前ではないが、人前で弾く勇気を身につけるには実践しかないと、足を運ぶ。正直、足取りが軽やかとは言えない。

『津軽三味線』をはじめて、9ヶ月がたった。気がつけば、毎日時間を忘れるほど三味線に触れている自分がいる。これほど没頭とは、自分でも想像がつかなかった。三味線の音色がそうさせるのか、単に陶酔しているのか。心地よいのは間違いないのだが、上達したとは言い難い、思いのほか難しい楽器であることを思い知らされる。

ある日、師匠とこんな話をした。

昔は、師の許可がなければ人前で演奏するなど許されず、披露する機会がなかったそうだ。あくまでも私の想像だが、きっと師の流れをくむ音色を狂いなく聴衆に届けるため、厳格に管理されていたのだろう。裏を返せば、演奏を許されるということは、師から認められたことであり、流派の音色に間違いないという太鼓判でもある。こうして流派の音色、質を保っていたのかもしれない。

しかし、師匠はこう続ける。「私はね、チャンスがあるなら、積極的に演奏すべきだと思う。次、いつチャンスが訪れるかなんて、わからないのだから。」その言葉の中に、上手、下手は含まれていなかった。チャンスがあるなら、その言葉に従って私は人前で演奏する覚悟を決めた。1月のことだ。

性格ゆえに勘違いされやすいのだが私は元来、人前で話すことがあまり得意ではない。その性格とは、悔やまれるかなプライドである。『恥ずかしい思いをしたくない』という小さなプライドが、苦手意識という壁となって立ちはだかる。春暖かく、朗らかな陽気でも心は晴れず。潮の香りをかぐ頃には覚悟を決め、適当な場所を探す。昼寝をしている人はいないか、子どもがはしゃいでいないか、ランニングの邪魔にはならないか、様々な言い訳を探してはできるだけ人気の少ない目立たない場所を探し、伸縮型の丸椅子を広げ、三味線の調弦(音合わせのようなこと)をする。糸を弾くたびに、他の糸もビィーンと共鳴する、これが津軽三味線の魅力のひとつでもある。

少しずつ、日が陰る。


手元を見ず、水平線を眺めるように視線を上げる。堂々と足を広げる姿は不安の表れでり、隠す仕草でもある。数少ないレパートリーをひとつひとつ丁寧に弾く。誰かに見られている意識から曲がたどたどしい、普段の練習と同じはずなのに。自分でもわかるほど音がずれ、聞くに堪えない。軽やかな唄も半音ずれて、なんだか物憂げである。どうやら動物の耳に障るらしく、鳶(とんび)が輪を描きピーと鳴く、散歩中の犬に吠えられる、ひどく散々な様子である。

しかし、初心者が人前で演奏できるなどというチャンスはそうそうないものだ。海のようなおおらかな場だからこそ許されるのかもしれない。そう自己暗示して引き続ける。人は見られる経験を積んで成長するのであれば、見られない(素通りされる)経験もまた成長の一つだと思えばいくらでも糧となる。状況を理解できると、ほんの少し余裕が出る。「どう弾けば、人の心に届くのだろう」と意識すると、音のひとつひとつにも愛着が湧いてくる。この流れで次の音は強く叩くのか、優しく弾くのか、サラサラと流すのか、軽やかに跳ねるのか、やれることはとても多い。

ひと息つく頃には日が陰り、空が赤く染まる。エモーショナルな風景をこの手に収めようと、観光客はカメラを空に向ける。当然、私になど目もくれず、背を向けてはしゃぐ。はて、カメラをこちらに向けてもらえうようなエモーショナルな演奏ができる日は、来るのだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?