突然前歯が欠けた男の一部始終

その時は、突然やって来た。

何となく違和感のある舌触りから(なんか前歯に付いてるな)と感じ、さっき食べたグミの欠片が頑固にも歯にまとわり付いているのかと、今思えば呑気だった。

ティッシュで前歯を拭いてみるも、その違和感は拭えない。

はて、どうしたものかと鏡を見てみると、前歯が欠けていた。

欠けていたと言っても茶葉の一抹くらいの大きさ、もしくは米粒を千切りにした時のその一つ分、もしくはメダカ用のピアスくらいの大きさだ。

アホなら欠けていることに気付かないくらいのレベル、もしくは大金と引き換えなら差し出せるレベル、もしくは大切な人を守る為の犠牲ならお釣りが来るくらいのレベルである。

このレベルだと歯医者に行くかも悩む。歯医者に(この程度の欠けで来たのかよ)と貧弱に思われてはサイヤ人の血が許さない。

何より「最近来ていなかったので検査をしましょう」とか言って、掃除だの、写真だの、歯磨き指導だので次回も来てくださいと、なんやかんや歯医者に通わされ続ける流れが億劫だ。いわばそれは自ら「毒状態」になりにいくようなもので、そうなってしまっては徐々に医療費を吸い取られるばかりである。

歯医者に行かずにどうにかならないかとネットで調べてみるが、出てくるサイトはどれも要約すると「とにかく早めに歯医者に行きましょう」と言っているものばかりだ。「ほっとけばそのうち治るので今は忘れて踊りましょう」みたいなサイトを期待していた俺が馬鹿だった。

もっと言えば「とにかく早く治療することが大切」と言うサイトばかりで、今の俺はただ普通に生きているだけでマイナスになっていく状況であることが確認され、戦況は劣性である。調べれば調べるほど「歯医者にいくべきなのか」と言う悩みが確信に変わるばかりである。

そんな情報を知ってしまったからには仕方ないと腹を括って、1年近くいってなかった歯医者に電話を掛けてみるも、その電話のスピーカーからは最速で取れる予約が4日後だと聞こえる。

サイトに書いてあった「とにかく早く」に4日後は含まれているのだろうか？4日あれば剃った髭は生え変わるし、封を切った牛乳は腐るし、近所のババアがやってる汚い弁当屋が4回閉店して4回開店すると考えれば遅すぎる気がする。もっとも、この非常事態に狼狽えている自分には、到底待てる時間ではなかった。

どうにか「とにかく早く」診てくれる歯医者はないかと考えても、そもそも歯医者のプールなんて一人1つしか抱えてないから都合よく見つかる訳もない。

もういっその事、歯の欠けた部分を切り込みとして、1つの歯を２つに分割することで、より多くの歯で食べ物を噛み砕いていく方向性で考えていこうかとさえ思ったが、それなら新しい歯医者を見つける方が楽だとすぐに気づいた。まだ神経までは欠けていないようだ。

そんな時、家の目の前のテナントが歯医者であることにふと気が付いた。

ただ歯医者を選ぶ理由が「家から近いから」と言うのはいかにも失敗しそうで、それではモブキャラ感が強すぎるから暗黙的に視野に入れないように過ごしていたが、今のこの状況を考えれば、家のすくそばに歯医者があるなんてあまりにも恵まれ過ぎているではないか。アフリカの歯が欠けた子供たちも、歯医者が近くにある俺の事を羨んでいるだろう。いつしかアフリカに歯医者付きの学校を建ててあげよう、とか考えてる時にはもうその歯医者との電話は繋がっていた。

「歯が欠けたからとにかく早く診てほしい」と伝えると、「10分以内にこれるなら今日診れます」と、歯医者の敷地内に住んでいるような俺の形にだけ扉が開いていると言う幸運に恵まれ、何とその日に診療してもらうことが出来た。

と言う訳でそこからはトントン拍子。電話を切ってからサッと歯を磨いて、玄関から大股二歩で歯医者に来院し、シームレスに診察台まで到着。家の便器に座ってから5分後に歯医者の診察台に腰を掛けたことある人は他にいないだろう。そういう人への仕事のオファーがあれば俺が行くしかないかと思うと、ヤレヤレだぜ。

しかし診察の結果はそんな奇特な存在の俺でも予想できるものではなくて、歯科医師は「欠けが小さすぎるのであまりやれることがないですね。とりあえず放置して様子を見た方がいいかと思います。」と言うのだった。

結果欠けた前歯はとりあえず放置して次回来た時に相談しましょうとのこと。そのあとは初診なこともありレントゲンを撮ったり、虫歯のチェックをしたりなど、それはカモの方から本丸に出向いてくれたと言わんばかりの刈り取られ方であることは語るに及ばない。

そして診察が終わりお会計の際には（初診だしレントゲンも取ったからこれは高くつくか）と構えたが、意外にも安くて2500円。本記事を執筆時点では2回目の診察も行ってみたがこちらは1500円。しかもこれがPayPayで払えるんだから何とも胡散臭い。

案の定、次は歯周ポケットをどうたらこうたらするとのことで、ずるずる通わされる流れになってきた。できるだけ通いたくはないが小心者の俺は、予定が空いてないふりをして予約を1ヶ月先に延ばすと言う、小さくて無力な抵抗しかできない。家から近いから正直毎日でも通えるのに。

とりあえず次回くらいは行ってやるけど、自分が気付いていないだけで既に「毒状態」になっているとかだけは勘弁して欲しい。