見出し画像

「支えに感謝、障害に負けない、前向きに闘病!」みたいな美しい障害者にはなれない



「障害を持った人」っていう肩書で社会に出ると、なぜか「清く正しく」を求められることがあってだるいんだわ。

これ、感動ポルノの悪影響やと思うんよね。
感動誘う系ストーリーに出てくる障害者ばかりが現実じゃないのにねえ。


少なくとも私は、「支えに感謝、障害に負けない、前向きに闘病!」みたいな、美しい障害者にはなれない。



感動ポルノによく出てくる「障害は神様がくれたギフト」「障害のおかげでたくさんのことを学べたし、そのおかげで出会えた人もいる」といった言説は特に嫌い。反吐が出そう。

確かに障害のおかげで得た学びはあるし、障害を通じて出会えた良き仲間もいるのだけど、健常に生まれていたらまた違った学びや出会いがあったと思うんよね。

本音を言うと、ずっと健常者が眩しくて、羨ましくて仕方なかった。
普通を求めて人一倍頑張っても、健常者のスタートラインにも立てなくて、数え切れないほど悔しい思いをした。
羨望を通り越して「健常者が恨めしい」という感情を抱いた日もある。
(今は、健常者だって万能じゃないしそもそも人間なんて誰もが不完全、という認識でいるが、一時期はそういう認識を持つ余裕がないほどにやさぐれていた。)




普通に考えて、障害があるよりも無いほうがいい。

健常者が上で、障害者が下なんてことは絶対にないけれど、「支援をする人」「支援される人」ということで、どうしても非対等な関係にはなってしまうんだな。
障害者枠で就労していると、これをよく実感する。

必要な合理的配慮を求めるために、よく知らない人、あまり好きになれない人に対しても、障害特性という個人的な事情を公開する必要がある。

発達障害という「ザックリしててなんかよく分からん」障害を、健常者に分かりやすいように説明するのは煩わしいことが多い。

定期的な通院や、市役所の福祉課に何度も足を運ぶのもそこそこ手間だ。

障害特性と共に生きるって面倒臭いことの連続だけど、障害特性を持って生まれたのだから仕方がない。
「めんどうくさいのう」とブツブツ言いながら、タスク消化の一つとして対処しているだけである。


メディア映えするような清く正しい障害者ばかりが現実ではない。