障害者は種の多様性としての価値がある、という言説
過去に相模原障害者殺傷事件の追悼アクション #726追悼 に参加したときのこと。
参加者の一人が「障害者には種の多様性としての価値がある」と演説していて、多くの聴衆も合いの手を入れたり頷いたりしていて、その光景に私はなんとも言えない違和感を抱いていた。
最近ようやく、自分の中であの違和感について言語化に至ったので書き留めておきたい。
⚫︎種の多様性について
生物が生き延びるためには、色んな特徴ある個体がいると強い。
多様性のある生物は環境変化において生存確率が高い、というのは生物学的にも証明されている。
例えば、同じ田んぼの稲穂でも、育つ高さや強度が違う。
これは災害や病気で絶滅しないための種としての生存戦略である。
われわれ哺乳類ヒト科においても、環境の変化によっては、今平凡に生きている人よりも、なんらかの障害のある人の方が生存確率が高くなることが考えられる。
例えば、普段外に出られない対人恐怖症。
徹底的に綺麗にしないと気が済まない強迫性障害。
未知の感染症流行時にはこういう人の方が生き残りやすくなる。
健常じゃない気質が有利になる、これが種の生存戦略としての多様性である。
⚫︎当事者の一人として
我輩は障害者手帳3級を取得している身であり、一応障害を持った当事者の一人である。
正直なところ「障害者は生物の生存戦略しての価値がどうたらこうたら」という話を語られると、微妙な気持ちになるのである。
たとえ好意的な文脈であったとしても。
日本の福祉は充実しているとは言いがたく、障害者の生活の保証は十分とは言えない状況なのに、いつ来るか分からない人類の危機のために頑張ってくれやっていうのは、当事者からしたら無茶な話にきこえるのだ。
種の多様性としての価値を真に認めていただけるのなら、人類を危機から守るために、障害(=生活や就労においての人一倍の負荷)を引き受けているのだから、生きているだけでお国から特別手当を支給してもらいたい勢いなんだけど(笑)
現実には感謝されることもなく、ただただ不便なだけである。
それどころが、発達障害の私の場合は生育過程において、誤解され叱咤され排除され攻撃されることの連続で、それらの記憶は大人になった今も私の中で影を落としている。
障害者は生存戦略云々説は、確かに生物学的には事実なんだろうけど、私にとってはいつ来るかも分からない人類の危機よりも、障害によって生じる生活や就労上の不便、あとは二次障害に対処していく方がはるかに大事なんだわ。
それと意識低い系当事者の本音を言わせてほしい。
万が一、人類の危機に直面したとしても私は活躍したくない(笑)
周りがどんどん死んでいって仲間がだれもいなくなって一人ぽつんと生きるのはさすがに悲しすぎる(笑)
ていうか生存戦略としての多様性なんて絶滅までの先延ばしにすぎないと私は思っている。
私の勝手な予測だけど、人類はいつかは絶滅すると思う。
それが何億年後か何兆年後かは知らんけど。
⚫︎一人の人間として
以下は、自分が当事者とかそういうのは置いといて、今この時代にいる一人の人間としての考えである。
「障害者は生きてる価値がない」と言って障害者施設で殺傷事件を起こした植松被告に対して、「いや種の多様性としての価値がありますよ」って返すのは、彼と同じ、生産性で人間の価値を測る土俵に立っていると思うのだ。
認めてもらうのに何らかの生産性を示さないといけない空気は、合理性ばかりが尊重される人権意識のない社会に行き着くと危惧してしまう。
すでにそういう社会に流れている空気もあるけれど、私は微力ながらも抗う一人でいたいと思う。