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死んでもいいけど死なないで

資格をとって、最初大学で研修したんだけど、そのときのPHSの内線番号が477で、「死なない」だなって思ってひそかにうれしかったことを、ふと思い出した。
ただのゲン担ぎだけど、当時の自分には意味があったな。


自分は死について考えることが好きで、このnoteにも、死がテーマの考察記事がいくつもある。
死は、誰しもに必ず訪れる人生最後の確定イベントだから、自分にとっては、忌み嫌うものでも、遠ざけるものでもなく、来るべき時になるべく穏やかな気持ちでそれを受け入れられるように準備しておきたい、そう思って、よく、死について考えている。リハーサルと本番はもちろん違うけど、それでも、考えておかないよりはいいかなと思う。

死について考えるということは、逆説的だが、生について考えるということと同義だ。それが有限である以上、生とは「死ぬまで生きる」ということだから。
生の意味を考えるとき、必ず同時に死を考えることになる。少なくとも自分にとってはそうだ。
だから、不治の病にかかっているわけでも、悩みがあって死にたいくらいつらいわけでもないけど、死について考えることが好きだ。


死について考えたとき、それが観念的になればなるほど、出てくる疑問がある。

「生き物はいつか必ず死ぬのに、なぜ、『いま』死んではいけないのか?」

特にひとつめの記事は、自分としては、自分が納得できるようにすごくたくさん考えて、やっと書いた、死に対する自分の考察の集大成のような記事で、自分ではとても満足しているんだけど、実際のところ、共感してもらえたことはほとんどない。
専門家であるはずの同業者に話してもほとんど共感してもらえることはなく、ともすれば否定されてしまうことの方が多い。
なので、最近では理解してもらうこと自体をなかば諦めてしまっている。

でも、自分と同じように感じ、考えていて、生よりも死に魅力を感じているひとは、少ないながら必ずいる。
だから、少なくとも自分は、その人たちの気持ちを決して否定しないし、むやみに生を強要するつもりもない。
自分と近いからって自分と同じだっていうわけじゃないんだけど、共感しあえる部分は共感したいし、気持ちに寄り添いたいと思う。

生は権利であって義務ではないし、だからこそ、死を選ぶ権利もあるはずなんだ。
こう書くと誤解されそうだけど、当然、自死を推奨しているわけではなくて、あくまで、その選択肢は個人のなかにあって、他の誰にも、生を強要する権利なんかないんだ、ということが言いたいわけです。
「つらかったらやらなくてもいいし、逃げてもいいんだよ」っていうのに、どんなにつらくても人生からは逃げちゃダメだ、なんて矛盾してるよね。

だから、自分は、死にたいと思う人に対して、その思いを否定するようなことは絶対にしないし、これからもするつもりはないのです。


ただ、これはあくまで、その考えや選択肢を、頭ごなしに否定することは絶対しないし、共感できるところは共感し、その価値観を尊重する、ということであって、その選択肢を積極的に肯定したり、当たり前だけど背中を押す、みたいなことでは当然ない。

自分は、誰にも、自ら命を絶つという選択をしてほしくはないし、自分が多少でも関わった人に対しては、特に、生きていてほしい、と強く願う。

自死の選択肢を認めたうえで、そうしてほしくないと願うことは、矛盾しているようで、全く矛盾していない。

「死にたい」とこぼした人に対して、「死んじゃだめ」とか「そんなこと言わないで、考えないで」と話すことはとても残酷なことだ。
当人はきっと話を聞いてほしくて言っているのに、それを否定されると、「この人には理解してもらえない」と失望して、それ以上話をしてくれなくなるし、ひとによっては、「やっぱり自分はダメなんだ」とさらに追い込んでしまうかもしれない。
また、これも人によるけど、「どうしても辛かったら、そのときは死んじゃってもいいかな」と思うことが、逆に逃げ道になって、心を楽にしてくれることだってある。

ただ、多くの場合、「死にたい」というのは、「死んだほうがマシなくらいつらい」とほぼ同義だから、死ぬ前に、その、「死ぬほどつらいこと」を何とかすることが先決である。たいていの場合、ストレスは簡単には解決できないことではあるんだけど、とりあえず、そのストレスから逃げる方法を考えることは、一時しのぎではあるけどとても有効な手段だ。
追い詰められているひとは視野が狭くなっているし、マイナス思考にもなっているので、なんとか時間を稼いで、その間に少しでも立て直して、改めて、そのストレスをどうするかに向き合う、という順番が望ましい。

つまり、必要なのは、死にたい気持ちをなくすことではなくて、死ぬことをとりあえずいったん保留してもらうことだ。真面目な人ほど、この、保留という選択肢を選ぶことが苦手であることが多い。

ずっと逃げ続けることはできないし、逃げてることもストレスになっちゃうから、その保留の状態が長く続くことは必ずしもよくはない、でも、とりあえずいったん引いて態勢を立て直すことはとても有効だし、その方が効率がいい。

死ぬことをいったん保留してもらう、というのは、別の言い方をすれば、それを実行にうつすまでの時間をかせぐ、ということだ。「死にたい」、そう思っている人に対して、まわりの人間ができることなんて、その程度だ。説得して考えを変えてもらおうなんて、おこがましいにも程がある。


でも、死にたい気持ちを否定せずに聞いて、受容し、そのつらさに共感し、肯定したあとで、必ず伝えるようにしていることがある。

それは、「あなたの死にたい気持ちは理解したし、それを否定しないけど、でも、それでも、ぼくは、あなたに生きていてほしいんだよ」ということ。

…もはや治療でもなんでもない。ただのお願い。

でも、本気で死を願っている人に、他人ができることって、お願いすることくらいなんじゃないだろうか、と思うのだ。

理ではない。道徳とか倫理でもない。ただの感情。

あえて悪い言い方をするなら、「あなたの死にたい気持ちはわかったけど、でも、あなたではなくぼくのために、つらくても、あなたに生きていてほしいんですよ」っていう、とても自分勝手なお願い。

でも、これをそのとおり伝えると、思いつめた表情で死にたいってこぼしていた人が、意外な顔をして、「そんな自分勝手なお願いをまっすぐ言ってくるひと初めてみました」って笑ってくれたりする。

そして、次回の約束をとりつけて、続きはまたそのときに相談しましょう、と伝える。そう、これもただの時間稼ぎ。まっすぐに思い詰める真面目な人は、こんなときでも約束を守ろうとしてくれることが多いから、ちょっとずるいやり方だけど、「待ってるからぜったい来てね」と念を押すようにしてる。

もちろん、絶対はない。99%うまくいっていても、1%の、エアポケットみたいな瞬間で、向こう側に行ってしまうことだってある。表面は平静を装ってはいても、内心は綱渡りみたいな気持ちだし、ほとんどの場合、自分にできることは祈ることだけだ。その日の約束に来てくれたことに、束の間ホッとするけど、また次の約束の日に来てくれることを祈る日々の始まりでもある。これはこの仕事をしてる限り一生慣れないだろうし、慣れてはいけない感覚だと思うけど、ここはやっぱりしんどい部分ではある。

でも、だからこそ、「今日、自分は、ベストを尽くしたと言えるだろうか」「このひとと会うのが、これで最後になってしまったとして、自分にできることはすべてやったと思えるだろうか」ってことを、常に自問自答しながら仕事をしなきゃいけないと思うし、どんなに忙しくても、それは忘れずにいるようにしている。

自分はもちろんだけど、相手にもなるべく納得がいくまで話をしてほしいと思っているから、話を途中で切り上げることはしない。そうすると、他の同僚よりいつも時間がかかってしまうし、終わる頃にはとっくに終業時刻をすぎてしまって、他部署の人たちにもいつも迷惑をかけてしまっている。経営のことを考えると実に非効率的だ。でも、自分はそのやり方しかできないし、変えるつもりもない。

誠意とか誠実とか、言葉にすると途端に薄っぺらくて信用できないものになってしまう気がする。これらは常に行動の中にしかない。しかも、1回ではない、同じ行動の繰り返し、積み重ね、その中にしかないんだ。伝えたい思いは、言葉だけでなく、行動の裏打ちが必要ってことだ。

「ぼくはあなたに死んでほしくないんだよ」、この言葉が意味をもつかどうかは、相手にとって自分がどういう存在であるか、どう思われているか、それに尽きる。信頼を得るのには長い時間と言動の積み重ねが必要だけど、失うには一瞬で事足りる。だから、一瞬たりとも手を抜くわけにはいかない。


…自分は何もがんばってない、って以前の記事に書いたけど、そう考えると、仕事の、この部分だけは、がんばってると言ってあげていいような気がしてきた。自分もなかなかがんばっててえらかったな。


たくさんのひとの力になりたい、なんて言えないけど、少なくとも、自分が関わった人たちに関しては、幸せになってほしいし、生きていてほしいから、そのために自分ができることなら、できるかぎり力になりたい。仕事で担当するひとたちはもちろんだけど、知人でも、もっと言えば、これを読んで共感してくれているかもしれないあなたに対しても。

これも、ただの自己満足だけどね。

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