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つくるということ・デッサン〜みんなどう見えているのか検証はできない上での見る練習

 前に書いた「見る練習をしていると見えるようになってくる」話はとてもおもしろいのですが、実はこれ、一つ忘れがちなことがあるなって思ってます。

 「見る練習をしていると見えるようになってくる」
ということは、「物事は変わらず同じ一つで」「同じものが見えている」という前提にのっとって、「教師の見方」や「受験デッサンで身につけるべき最低限の技術」を習得しているかんじなんです。

 わかりにくいですね。
 えっと、それはあくまでその人(その場・その政治力)の見方なんですね。その認識を、学ぶ側も、「見る方法」を提案する方も重々承知の上でやって欲しいなと思うんです。ここ、すごい大事。
 側溝みたいなもんで気づいたらそこをレールのように歩いてたってことある。それくらい入り込んだら車輪を上げるの大変なこと。

 実は医学的に見たら私たちの目はみんなそれぞれ違います。
色が違って見えてる人もいれば、距離感がゆるい人もいます。両方の眼で焦点をあわせていなかったら立体視してないかもです。
 実際社会ではそもそも、距離感などはある程度脳味噌が補正してくれるので、ほとんどの場合日常生活に支障はきたさないので大丈夫ですと問題になりません。
 それ故みんなある程度「デッサン上での見る指導」を受けて先生のご指導してくださった見方でもって脳がさらに補正してくれて求められる技能を身につけてゆきます。
 そこでできるかできないか、身体的に少数派であるとか多数派であるとか分けられて、昔であれば大学受験資格も失ったりしたのでしょう。図画工作自体、戦争の技術の一つだと考えられていた時代もありました。
 私が学生の頃もまだこの名残だけあったので、斜位がある私は担当教官に「絶対に他の人にばれないようにしろ」とか言われたり、解剖学のY氏に「女でよかったな(距離感が弱いのは女性に多い)」とか言われたわけです。彼らは、今の時代それを言うことがどんな意味を持っているのか、考えていたとは思えません。


 これは今、従来の「美術」の上での物の見方に「医学」の情報を乗っけた状態なんですが、それだけでこの見方があくまで受験デッサンで身につけたい技術であり、その他の芸術の可能性はちゃんとあるということがわかるのではないでしょうか。
 みんなと見える色が違っていても距離感が違っていても、その人自身がなにかを作る意味は変わらないんですよ。そもそも、その色は一つでも同じように見えているかどうか確かめようがない。脳味噌と目玉取り換えることできないし。

 これは何回も勤務校の保健室の先生に教えてもらえました。例えば、「緑」をAさんBさんどんな色に見えてるのかわからないけれど、その人にとっての「緑」はそれよ。と。体調によって中間色が苦手な人は揺らぐでしょうけど;私も距離がぶれます。でもそれも含めてその人自身の色であり距離なんですよね。
 私自身、「色覚異常の生徒もいるからデリケートな題材である色彩学を中学校で扱わないほうがいいという指導を受けたことがあったんですね。みんな違って見えてるかもしれないっていうことすらタブー視してたのかもしれません。


 なので、自分が学んできたことって疑ってかかったらいっぱい疑問があるし、もう世界は末広がりっすww
 信じてたものが違ったらショック受ける人もいるでしょうけど、、、、

 学生の頃、よく教授たちが「日本人の描くデッサンの質が下がっている。がっちりと取り組まない。扁平で薄い」と言っていました。
 一方で、西洋の人たちが「日本人には人が二次元に見えてるのか?」とw漫画アニメブームの頃言っていましたw
 個人的に私は「そうだね〜眼は人種や文化で違うだろうな〜考えることもちがうから見えてるもの違うでしょうね」と思ってましたが、昨今はPCやスマホのおかげで急性斜視も増えてるようですから、実際に人は続々と立体視を辞めてるかもしれませんね(笑)
アニメ化して見えてるかも。ふふふ。

 デッサンで見えるようになることを学びの一つとしている時に、水挿すなよって感じなのですが、学んできたことであればあるほど疑ってかからないとなって、本当思う今日この頃です。そう。学校出てからの人生って学んできたことを、そっから先は検証してく作業っていうか。

 
 学びって長い間楽しめてお得。

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