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同棲のために10年分断捨離したら、棚からぼたもちだった話



 想像したことがなかった。

 誰かと肩を寄せ合い、生活することを——


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 今の私は父とともに暮らしている。いわゆる実家暮らしと言って差し支えない。

 10年前私が一人暮らしをしていた頃、会社に何とかしがみ付き、仕事に忙殺されていた。家に帰ればひとり。会社に行ってもひとりのような気分だった。

 学生時代友人はいたが、とてもじゃないがこんな惨めで鬱々とした自分の姿は見せられないと思い、気づけば私は友人全ての連絡を絶ってしまった。



 当時夜は長く、昼も長く感じた。唯一短い朝、私はパニック発作を度々起こし、アスファルトの上で転げ、刺すような夏の日差しを浴びていたのを思い出す。


 そんな私だったが、今から半年ほど前に神様からの授かりかのようにして、恋人ができた。

 天真爛漫な、太陽のような人だった。私の身体をじりじりと熱してくるものではなく、優しくてあたたかく、私の人生もまとめて照らしてくれるような人だった。


 がむしゃらに職を探し、働き、無職やアルバイト生活から、やっとこさ再び正社員になれたかと思えば、それに合わせるようにして恋人が私の隣にいた。彼女とは仕事関係で出会った。

 ああ。なんと私は恵まれた人間だろうと思う。恋人がいる人生は、実に8年ぶりだった。

 愛らしくて、愛おしくて、恋人のことを綴ればそれだけでこのnoteはあっという間に1万字を越えてしまうわけだが、それはまたいつかの機会にしようと思う。

 私はとっくに30を越え、少し走っただけで息はあがってしまう。先日恋人と縄跳びをしたのだが、まだ二重跳びくらいはできたので少し安心している。

 ただ今日はそんな体力の話ではなく、いや、体力の話でもあるのだが、私はこの度人生で初めて同棲をする。それに向けての奮闘を、過去から遡りながら今日は紡いでいけたらと思う。



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 10年前、私が一人暮らしを始めたのは、新卒で入社した職場が社宅を用意してくれたのがきっかけだった。新入社員特有の、嬉々としながらも不安を携えていたのを記憶している。なにせ初めての一人暮らし。自分が大人になったことを実感するには十分すぎる出来事だった。

 ただそこでの無垢な心は、たった数ヶ月でかげりを見せる。上司からの罵倒、責任、プレッシャー。きっと耐えられる人の方が多いであろう出来事でも、私は耐えられなかった。

 加えて新卒の頃は、「世界」をほとんど知らないこともあり、自分自身をより弱く感じた。こんなことにも耐えられない自分が間違っているのだと思った。今振り返れば、誰しも泣き出してしまうような経験をしていたわけだが、そんな俯瞰で見れる冷静さは当時持ち合わせていなかった。

 上司からの「ここで辞めたら、どこへいっても通用しないぞ」という言葉を盲信するしかなかった。石の上にも三年と聞くし、とにかく耐えることだけを考えていた。そもそも心持ちが、やりたいことがある!とかではなく、"耐える"になっている時点で今ならわかるが、潰れることが目に見えている。風船を上から押さえ続ければ、いつか必ず破裂する。子どもだって知っていることだ。

 私はうつ病になり、パニック障害になった。

 道端で呼吸がうまくできなくなり、手足が痙攣した。のちに知ることになるが、それがパニック発作だった。様子のおかしい私を察して、近くにいた人が救急車を呼んでくれたことを今でも覚えている。

 運ばれた先の病院のベッドでは、手に管がつけられていた。精神的なことが理由で救急車に運ばれたことは初めてだったこともあり、当時取り返しのつかないところまで自分は来てしまったと思った。 


 休職し、私は復職することなく、その会社を退職した。

 それを父に電話で伝えると、こう返ってきた。

「ちょうど毎日寂しくて退屈だったんだ」

 そう言って朗らかに笑ってくれた。荷物をまとめて実家に帰ったとき、父の顔を見ただけで私の目からは大粒の涙が溢れていた。


 退職した頃うつ病が深刻だったこともあり、私は荷物の選別(不要なものを捨てたりすること)もできず、とにかく全ての荷物を父の家まで持っていった。
 流石にナマモノなどは捨てることができたが、もう使わないとわかりきっているものや、少々ごみに近いようなものも持っていった。考える力が湧いてこなかったのだ。

 ダンボール数十箱分の荷物を私はほとんど開けず、納屋の奥の方へ押し込む。言い訳に聞こえるだろうが、物には出来事や言葉が眠っており、当時の自分にはそれらと向き合う力がなかった。そんな姿の私を見て、父は私を責めることは一切しなかった。「いつか箱が開けられるようになったら開けたらいいんじゃないか」と、また朗らかに笑う。

 家族がそばにいても うつはひどくなり、身体を起こすこともできなくなった。雪の降る山で遭難しているような気分だった。もう、自分から何もできないのだろうという恐怖が日々押し寄せてくる。

 だがどんなにうつ病が深刻になっても、パニック発作の恐怖が消えなかったとしても、それでも生き続けた。生きるしかなかった。「死んだ方がマシだ」と思う瞬間があっても「死ぬのが怖い」という気持ちが常に上回ってくれた。

 とにかく私は存在し続けた。自分の人生を表現するとしたら、とても合っていると思う。何か成果や結果を出したり、意味ある行動なんて一切できない。ただ生きていた。それは当然、なんの努力でもない。とはいえ時間をかけて、たまたまアスファルトの割れ目から花が咲くような、そんな瞬間が訪れるのを待った。

 他にも例えるなら、"必要だった経験"と、"必要のなかった経験"というものがあったとする。それら全てを"必要だった経験"だとまとめて解釈できるようになると、降る雪は次第に止んでいき、私は下山することができた。

 うつは人によって様々だと思うが、私の場合、もうきっかけなんてものはなかった。とにかく雪が止むのを"待つ"しかなかった。これは"耐える"とは違う。時間をかけることしか、私は解決方法を知らなかった。


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 あの日、うつ病にならなければ。

 あの日、パニック発作が起きなければ。

 そう考えているうちは、どうしても同じところを頭がぐるぐると考え続けてしまうのだが、何年もかけて、ある日突然全てが「よかった」と思えるのだ。

 そうして、下を向いた日も、上を向いた日もありながらあっという間に10年という時が過ぎる。気づけば私の隣では今度、愛する恋人が朗らかに笑っていた。


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「早く一緒に住みたい!」

 恋人の笑顔が、私は大好きだ。どれほど疲れていたり、精神的につらいことがあっても、彼女の顔を見るだけで、あらゆる棘や鬱屈が自分の身体から抜けていくのがわかる。前述の通り、8年ぶりの恋人だった。

 私は容姿が優れているわけでもなく、人より何か秀でているものがあるわけでもない。恋人ができた理由を自分なりに整理するのであれば、一番は私が何かを、人を、自分から「好き」と伝えらえるようになったからだと思う。当然、運命もあったわけだが。

 私たちは先月から、二人の納得できる物件探しに奮闘した。希望する物件が他の人に先を越されてしまったり、入居審査に落ちたりと、順風満帆とは全くいかなかったが、どうにか二人とも気にいる物件までこぎつけることができた。

 恋人の支えもあり、というか恋人の支えが存分にあり、私たちは先日、同棲するための物件の契約まで済ませることができた。引っ越しは数週間後となった。そうなれば、そのために私がしなければならないことがある。

 そう。あの日のダンボール数十箱分と、10年越しに向き合うときが来たのである。


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 久しぶりに納屋を見上げる。

 納屋を開けることはあった。中にはトイレットペーパーやティッシュ、掃除機などを仕舞っていたからだ。

 だが見上げるのは久しぶりだった。ダンボール数十箱分を視界に入れただけで、蘇ってくる記憶がたんまりとある。



 私は意を決して取り掛かった。

 まずは【本】と書かれたダンボールを開ける。そこには文庫の小説だったり、音楽雑誌だったり、資格の本が入っていたりした。

 10年前から文章を書くのが好きだった私。それもあってか文庫本が入っているのはわかっていたが、音楽雑誌は意外だった。

 "意外"というのも、自分のことのはずなのにおかしいかもしれない。私は自分に趣味などないと10年かけて思っていたが、そういえば、とやっと想起されていた。

 10年前に聴いていた曲をたくさん思い出した。その曲をそれぞれ聴くと、自然とその頃の記憶も芋蔓式に蘇った。

 そのとき、自分でも信じられないくらいの涙がでてきた。うつ病になる前に聴いていた曲、うつ病になったときに聴いていた曲。それらは私を当時救ってはくれなかった。力にはなってくれなかった。こんな言い方をしてしまって、アーティストの方には申し訳ないとは思う。

 だが10年越しに、私の心を救ってくれた。今も固まっていた雪は、ゆらゆらと優しく揺れる炎によってじんわりと溶けていった。これが「救い」ではないのであれば、私にはその涙を説明できそうにない。


 そして一緒に入っていた資格の本も取り出す。当時新卒で入社した会社の業界柄、いろいろと資格を取ることを会社から推奨され、勉強に励んでいた。

 泣きながら勉強した。いつだって私は涙とともに歩んできた。涙が流れる自分に安心しているときさえあった。休職したり、無職になったりしたが、そういえば私はいくつもの資格を取得していた。その中には国家資格もあった。

 ああ。当時は自分を褒めてやることなどできなかった。「私はこんなに頑張っていたのだな」と耽る。結局その業界ごとトラウマになった私は、10年の間一度もそれらの資格を有効に使うことはなかった。だがここにも、必要だった経験が眠っていた。この資格たちは、私の心を今まさに支えてくれている。"頑張った証"は大人になった今でも意味を持ってくれた。


 ・・・



 その後、一箱、また一箱と開けていった。同じく本が入ったダンボールが多く、それに次いで多かったのは洋服や靴だった。

 当時シンプルな服より、少し派手であったり、変わった服を好んでいた。今なら冷静に自分を分析できる。

 10年前、私は自信がなかったのだ。だから服で"違い"を見せようとした。だがどれも今思えばハリボテだった。芯から派手な服などを好んでいる人を否定するつもりなど一切ない。ただ私は少し、無理に戯けた人形だったのだろう。

 本は特に気に入っているものだけを残した。服や靴はほとんど捨てることにした。他にも雑多なものがいくつもあり、それらをゴミ袋にまとめた結果、これくらいの量になった。


(おぉ……)



 写真に映っているもの以外も合わせて20袋近くいったと思う。

 納屋はぽっかりとひらけ、私の身体の風通しもよくなった。

 私の人生、過去を振り返るのはいつだって怖い。それ相応の力を込める必要があった。

 ただ終われば、こんなに簡単なことだったのかと思う。体力的には大変だったが、この気持ちの軽さは対価として十分すぎるものであった。

 なんだかこの気持ちよさを誰かに伝えたくなり、このnoteを書き始めた。断捨離を勧めたくなったのだ。

 私が断捨離を勧める理由は、「自己理解」にある。自己理解の先で、未来の活力になってくれたから。自分はどんな道を歩んできて、どんな苦労、努力、挫折、光を感じてきたのか。それをもう一度握りしめて歩み出す。

 仕事や勉強、生活、他にも人生には様々な壁があるだろう。今何か厚くて重い壁を感じている人がいるのであれば、必死に押すより、自分の荷物(心)を軽くするのもひとつの手だと思う。

 10年ぶりに私は断捨離をしたわけだが、10年分の"時間"をまるごと断捨離できたのだと思う。いや。断捨離を超えた、これは昇華かもしれない。

 同棲のために荷物を整理する目的であったが、棚からぼたもちであった。鬱々で過去どうしようもなかったと思っていたが、私は、、よくやっていた。よくやっているではないか。

 心と身体が、ほんの少し軽くなった。ほんの少しだ。これこそがまさしく、必要だった経験だろうと想う。心の風船が、今日の風にとても似合っている。


 詩旅つむぎ

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