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一人と独り

最近のことを、言葉にしないまま過ごすのはなんとなくよくない気がしながらも、どこから話せばいいのかわからない。

最近ようやく苦しみから解放されたが、その苦しみになんの意味があったのだろう。
非常に多くのことを考えた2ヶ月だった。

まず八月半ば、自分がどうしたいか、目的をはっきりさせた方がいいと上司に言われ、私は平日昼間の大江戸線六本木駅でえんえんと泣いた。その後、大門駅の地上に出た時の照りつける夏の日差しの青空を今でも覚えている。
その時に、私は自分がどうしたいかを考えるのがすごく苦手、というよりできないことに気がついた。
どこまでが自分の気持ちでどこまでが相手に合わせた気持ちなのか、境界線が曖昧で自分でも判別つかないのだ。
2週間ほど一生懸命考えた末、『あらゆる行動は全て自分のためでいい。自分のためにやることが、相手に返るから。』という結論に至ったが、しっくりはきていなかった。

ここからまた、拍車がかかる事件が起きる。

8月に、withというマッチングアプリを入れ、4人の男性に会った。条件は30歳以上。高校から大好きな、なんともう知り合って8年の中になる一つ上の大好きな女性の先輩がいるのだが、その人がものすごく可愛いしオシャレで、最近久々に幸せな恋をしているとのこと。マッチングアプリで知り合って、と話をしてくれたので私もそれに便乗して「最近私も同い年と一つ下のひととあったんですけど、言ってほしいこととかが見え見えでつまらなくて」と愚痴をこぼしたら、私はもっと上がいいんじゃない?とアドバイスをくれた。
今23歳の私は、プライベートで自然的に会うのは29歳が限界だったので、ならばと思い上記条件に至ったわけだが、これがまた大変だった。
30年も生きてると、どうやら結構、自分の意志が強くなり過ぎるか、殻が硬くなり過ぎるか、固定観念で話してくる人の割合が多かったし、自分の発言があたかも正解だと思ってる人が多かった。加えて、別に23歳も30歳もなんら変わらず、落ち着かない人は落ち着かないし、幼稚な人は幼稚なままという感じだった。
そういう人たちと2.3時間食事の場で話をしていると、“対人関係においてのみ自分軸がない私”はひどく混乱してしまうのだった。
つまり、大人ぶった人たちに、アレコレ言われそれを全て間に受けてしまう。
中でも厄介だったのがたった2時間しか会っていない35歳に「コミュニケーションが下手」「人を大切にしてない」の類を散々言われ、普通の反応はきも!とか、うざ!でいいのに、私は「コミュニケーションを下手と言われたことは人生で一度もないが、そう思わせてしまったの私の落ち度だよな」そう言う風に考える人間なのだ。
3週間に1度の頻度で通ってるネイルのお姉さんに定期報告していたが、その都度「下々の民に期待しすぎだし、耳を傾けすぎ」と言われた。
今思うと本当にその通りだが(下々、の方ではなく、傾けすぎの方)、これまで相手に沿って変容してきた自分にとっては難しいオーダーだった。

ここまで、自分軸がないと言う話をしたが、35歳の衝撃的事件を踏まえ、もう一つ問題が浮き彫りになった。それが、あまりにも自分に自信がなさ過ぎる故、そして幼少期から思春期にかけて満たされなかった欲求を拗らせた故、他人に大きく期待し、希望を抱いているということだ。
特に異性関係にある人には、親に見てもらえず、受け入れてもらえなかった(ように当時感じていた)「ありのままの自分」を受け入れてもらいたがってしまっていたことに気づいた。

私は小さい頃から「親の言うことなんだから聞きなさい、親の言うことなんだから絶対」と言って躾けられてきて、私はそれに8年ほど反抗していたと思う。今思えば親も不器用で、私のためを思っている親だからこその意見なんだよと。いう意が多分に含まれているにも関わらず、外型をつけるとそういう言葉にしかならなかったのだ。もちろん当時の私は、なんで私自身を見てくれないの!と寂しさを感じ、それを怒りと言う形にして発露していた。

だからか、どこから間違えたかは分からないが、私は“とんでもないわがまますらを受け入れてくれることが愛”と勘違いした。さらにそこに上乗せするよう、自分に自信がないことを「わかりやすくすごい人に認められる(つまり、受け入れてもらう)」ことで補完しようとしていた。
今思えば馬鹿みたいな話だけど、ほんの数ヶ月前まで異性完成になる男の人はみんなハッシュタグがついていた。基本#お洒落 と#年収 、#変わってる人、そこに加えてそれなりの容姿があれば事足りた。

散々「恋人とは、欠乏欲求の満たし合いではなく、成長欲求の促進ができる関係がいい」と言っていたが、前提自分が欠乏欲求まみれだったのだ。それに気づいた当時(と言ってもちょうど1ヶ月前ほど)は、自分の情けなさに落胆したが、健康状態の今思うと、そんなのもまあ人間らしくていいな、くらいでしかないから本当に不思議である。

ここあたりで、自分の中にある「寂しい」と言う感情に目がつく。今まで無理して上から蓋を押さえつけていた腕が疲労の限界に達して腕を離した瞬間に壺から何かが溢れ出てくるような、そんな感じで私の「寂しい」はブワッと溢れてきた。
そしてまたよくなかったのが、35歳も同じように寂しがりだった。つまり、互いが互いを利用し合って、だから何をしたとかではなく、ただ相手の傷を時々弄ることで(傷の舐め合いですらないのが、また)、“無い繋がり”を感じていたが、何も面白くなかったし、当たり前に膿んだ傷を触られるのは痛かった。

その「寂しい」と言う感情は、ずっとひとりで、本当の自分を曝け出す事がないし、曝けたらみんなどっかに行ってしまう、私を受け入れてもらえない、というものだった。これらを言葉にした時に初めて、私は誰も信用していないことに気づいた。人が好きなことや素直なことをウリにしている人が、笑ってしまうよなと言う話である。ありのままの私を受け入れてもらえるような存在ではないと自分を信じていないし、ありのままの私を受け入れてくれる相手がいると信じていないために、ずっと、私と私の関係ですら、独りで寂しいと感じていた。

「寂しがってる」と言う課題に気づいてしまったら、それを見過ごすわけにはいかないのが私の性であれこれ考えた。
この時よく聞いたのが、superbeaverの「証明」と言う曲だ。優に100回は聞いただろう。ここの意味を何度も考えた。

二人といない 前例もない 比較できない 対象がないから
独りが怖い 当てはめてたい 比べるでしか 価値が見えない人へ

僕もあなたも 一人なんだよ
産まれて死ぬまで 一人なんだよ
だから独りきりじゃ 成り立たないんだよ
あなたがあって 分かち合って 抱きしめあって
命は初めて輝く
SUPER BEAVER 『証明』

この歌を聞いた時、一人だから独りじゃ無いという意味が、何度考えてもわからなかった。

そもそも、全てを受け入れてくれる人はどこにもいないんじゃないか、だからそう言う意味で、私は人に期待しすぎなのではないか、でもそれなら、私をわかってくれるのは私だけなら、それは独りと何が違うのか?
そんな具合で考えている中、急遽上司に呼び出されすごくドキドキした。
話の内容は、私が思ってることを言い切ってないのが伝わってくるから、それだと信頼関係は築けない。というものだった。結構ストレートな言葉で言われたけど、傷付かず、寧ろ私が信頼してないので信頼構築できないのは当然じゃん、そんな気持ちだった。それでも、少なくとも私は自らの意思で組織で、チームで仕事をすることを選んでいて、ある程度「郷に入れば郷に従え」が世の鉄則だろうと言うことも分かるのでどうしたもんかなと思い、「そもそも信頼できない、自分のことも相手のことも」とすっかり本音を話した。
ここで本音を話すことと、相手を信頼してることは全く違うと認識しておいてほしいのだけど、あの場であの人に本音を話す事がその場として必要だとされた事と感じ取ったのでそう対応した。
そう、こう言った具合で相手を判断することと同時に心の開き具合の調節が上手いのがまた、逆に私を生きにくく、人を信じられなくなってしまうのだ。感じ取り対応する自分を、自分では自分と思えないから、永遠に心が独りで寂しいままだったのだ。
話が逸れたが、上司にそう話すと、いろいろ話してくれたが要するに「あなたの全てを受け止めます」と半泣きで言われた。2時間くらい話して、彼女が嘘をついてないと言うのも伝わるし、私は心からこの人を信じてみよう、そうすることで自分のことを信じられるかもしれない!そう希望を抱いたが、結果は撃沈で、そう思い直してからたったの3日で信頼の試みに対し非常に疲労困憊状態に陥った。


この3日で気づいたことは、私は集団生活をしてきていないということだった。
中高大で特定のグループとつるむみたいなのを一切しなかったし部活に全力投球みたいなのしなかったから、組織に属するみたいなのを今初めて会社でしていて、だから小学校入学 (人と付き合って生きていくことを模索している)状態だった。
例えば、劣っている(と思っている)自分が教わらずにできる/解ることをできない人に説明する労力をかけていることにイライラしてしまったが(今まではやってこなかったのでイライラもなかった)
イライラしてしまう要因が二つあって、一つ目は
大学以前の自分の失敗って自分でリカバリーできることだったから、精神的に助けてもらうことあったにしろ、タスク的な観点で助けてもらった経験がない。
だから「自分もできないから、できない人に教えることがあるのは当然」みたいな感覚が根付いていない。
二つ目の理由が私は人より(良くも悪くも)思考力があったり(私のこの思考力がなければ私はとっくに鬱になったいただろうなと思う)無意識のインプットの蓄積量が大きい故の感覚の良さがあったりする。
で、自己肯定感低いのって強めのADHDから来る分かりやすい失敗(多動不注意って思考できないということよりも目に見えやすい、誰しもが実感しやすい)(そういう特性を肯定したいわけじゃない)からきている。ここが実際の自分と自己認識のズレが生じてるポイント。

また別で、実は寂しかった私は、会社にしろ友人にしろ普段のやり取りにおいて、「最後まで言い切るのがめんどくさい」というその下に「嫌われたくない」という思いがあるのかも?と思ったり。(言わないことで嫌われていることにも気付かず)
今は、人は「違う」ので、ある程度言い合った方が、価値観と意識的階層が合致する人同士で付き合えるから、やっぱ言うべき時は言うべきなんだろうなと思う。思うこととできる・やる、は、また別問題の話になるが。

いったん。

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