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満たされ、次にゆく

まず、私の現状を説明する。
分かってもらおうとしていない説明なので、抽象度が高くなるけれど、ひとまず見て欲しい。

成人発達理論で言うと、私は5に到達しているが大部分的に2・3が満たされていない段階にいる。
そのせいで、ADHDもあいまって衝動的2的行動を取ったり、普通になりたいという欲求(正確に言うと、ここでは普通になることが構ってもらう・注目してもらうから普通にならなくてはいけないという生存欲求)から3的行動をしたりする自分自体を、(5に到達してる故)俯瞰視できてしまい、自己のチグハグ具合に困惑し、葛藤していた。何年も。

こんなことを、お世話になっている人から教わった。
(こんなに短文ではなく、あらゆるシーンで、数ヶ月に渡るコミュニケーションの末だ)

そして今、チグハグの原因がわかった今、「地図」を渡された今、非常に快適に歩きやすくなっている。いま私が渡された「魔法の地図」には、現在地と進むべき方向がはっきり描かれ、(ときに地図上に靄がかかることもあるが)道のりに存在する障害すらも記されている。

何故こんなにも、前に進むためだけに、時間と精神を要して成長と葛藤をし、摩耗し、また癒し、また摩耗し…これらを繰り返していたかと言うと、2・3すらを超えて含むことが、私のためになる。


私の生きやすさに繋がる。ただ、それだけだ。


話を戻そう。
冒頭で、私は2・3が満たされてない5に足を踏み入れている、と話した。
そして、方向性がわかる地図を持っている、と先述した。

その方向性とは、全てを超えて含むことだ。
ここでいう全てとは、外界の話ではなく、絶対的自我の先にある真の自己解放だ。
勿論、世界の全てを把握した上で、私の居場所を定めたいと言う気持ちは大いにあるしそうなれるよう私は40歳になっても60歳になっても動き続けるだろう。でも、真の自己解放には、“世界の真実の全て”は必要としない。

まずはじめに、現時点での最終到達地点としている自己解放の説明をする。
有名なマズローの欲求説がある。

注意書きをしておくが、成人発達理論においても欲求段階説においても、上下はない。概念は概念のままに在るだけであり、どちらが優れてどちらが劣っていると言う話をしていない前提で読み進めてほしい。

何も知らないまま、上の△の図を見ると「自己実現欲求」に到達することが、最も優れている、と感じる人も多いだろう。

ただ、ネットで『マズロー』と検索すると候補欄に『6』という数字が現れる。(どうやら8段階まで分けられるらしいが今回の話に直接的に関わることでもなく、そもそもマズローもみんなが触れてるわかりやすい例として挙げているだけなのでここでは正確には追求しない)

かの有名な5段階説にはさらに上があり、それは『自己超越』という。ちなみに、noteを書きはじめて6の存在を知った(笑)(笑)本当は例えばなしで5の方を引用しようとしただけなんだけど、あまりにも私が目指してる方向性というものが『自己超越』という言葉、さらには大仏さまのアイコンまでもが私がこと言葉から想起するイメージに相応しい過ぎたので急遽採用した。

大仏のアイコンを相応しいとするのは、真の自己解放の存在は、鎌倉にある円覚寺で坐禅をしたときに頭にスッと言葉が入ってきたからだ。

あの日の朝、あの場所で、私は目を瞑り、自らに対しこう問うた。
「(私は)どうなりたい?」
『自由になりたい』
「何から自由になりたい」
『自分から』

この話をお世話になっている方すると、「私たちは傍観者であり空間である」と説く考え方を、ある本を通して教えてくれた。
これはたった一つの考えに過ぎないかもしれない。それでも私は革新的に感動し、現世に天国はあるんだと本気で思った。心が感動して泣いていた日の空を微かに覚えている。

私が傍観者になったとき、私は自己から解放されることになる。

今決めているのも、そう思っているのも、自分なのである。

「しなきゃ」「したい」は、全て、ただ自分が、そう思っている、だけ、なのである。

何を当たり前にと思う方もいるだろうが、敢えて説明はしない。ここでの説明に労力は裂かない。話をわかってほしいだけではなく、聞いてほしいだけだから。

そして、その前段階に「絶対的自我」が存在する。
絶対的自我という言葉が流布している字面かは知らないが、要は「自分はそもそも価値があるし、自分はそのままでOK」と(実際のニュアンスとは異なるが分かりやすい単語を用いるなら)認めることだ。

もっと分かりやすくいうと、自己肯定感。

(自己肯定感!なんて薄い概念として広く回っているんだろう。いや、薄いのではなく、あまりにも表層的過ぎる。)

私はまだ、何も持ってない私、そもそも持つとか持ってないの話が存在しない、そのままの私、これを愛することは、まだできていない。

ただ、昨日、限りなく素の自分を愛してもらうことで安心し、あと数歩で絶対的自己に辿り着ける気がした。

好きなお姉さんに会いに行くついでに見た創作があまりにもフリーだった
感動しないのも面白く、ただそうなんだと知った
これもまた、知った
会場での写真がこれしかなかったが、例のお世話になってる方の話を聞きに行き、その方の周りの方々にお会いして少し話した

どのシーンでも、私は私のままでいた。昨日の4つのシーンで、これまでいた「相手が求める私」はいなかった。

それでも、いや、今まで以上に、私を受け入れてもらっていた。そういう感覚を得た理由は2つある。
一つめは、私が「限りなく素でいる」ことに成功したから。
二つめは、私の満たされていない「安心感」が徐々に満たされ、誰かの愛を愛のまま、目に見えるまま受け入れることができるようになったから(これまでは捻くれ相手の愛の形を勝手に捻じ曲げて、食べて、美味しくないと吐いていた)。
(正確には、一つめの「素でいること」ができるようになったのも安心感起因であるので、根源の理由としては、否定されない場所がある安心感、そしてそこから、私は私のままでもいいと思い始めていることにある)

わわわわっ。

今、言語化して感動した!

noteを書く前までは
あと数歩で絶対的自我に辿り着きそうな感覚

愛されていることを全面的に感じたこと
は繋がっていなかった。
でも、そうか、既に絶対的自我が瞬間的に生まれているからこそ、愛を受け取って気持ち良いと思えたのか!

ということで、
タイトルに戻ります。
「満たされ、次にゆく」

現状の私にはまだ孤立を恐れる帰属意識があり、さらには今までの私にはメンタルブロックにより心から安心して帰属できる環境がなかった。(家族然りである)
ただ、満たされることによりブロックが外れ、環境を信用できるようになり、今環境を通して私自身を信用し始めている。
(この説明からすると、環境と私は中心部分に糸が通り繋がっているように見えるが、のちにその意図は自然と切れる(もっと正確にいうなら、元来糸は存在し得ないが自らの感覚的にはこの表現で合っていると思う)

私は今、満たされ、次に足を進めています。

私がこうやって少しずつ生きやすくなっている(苦しさから解放されるだけではなく楽しくなる、ポジティブ感情が増幅する)のは、
一重に、限りなく、みんなと私自身のおかげです。

私が見えている範囲の「みんな」、それと自分に、本当にありがとうと心の中で何度も唱えているし、それを行動で示して返していきたいと何度も思っているよ!


ここまで読んでくれて、ありがとう〜
発見がある、自分の進歩を感じ取れる、良い日曜の朝になりました!


▼追記
くだらない恋バナをするのなら、精神年齢が低いなりに真摯に頑張る生年月日が同じ同い年とビルに囲まれたカフェデートより、抜けてるふわふわした年上犬とアイスクリーム公園デートのほうが癒された。

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