中央_3


前回はコチラ





私は怖くなった。
この人を心の頼りにしてしまったら、私はもう生きてはゆけない。その想いを掻き消すよう、ワイングラスをグッと傾け、澄んだ赤色のアルコール飲料をツツと心の奥の方まで流し込む。



───────数時間前


何が必要か、どんな服装で行けばいいか、全くわからなかった。そもそも、本当に彼が来てくれるのかすらも、俄かに信じ難い話だ。

それでも、刺激がない日々に突然舞い込んだ一枚のカードキーに、私は抵抗する術を持ち合わせてはいなかった。
回りくどい言い方をしたが、私は迷わず約束の時間に合わせてそのカードキーをドアノブの上にかざしたということだ。

言い渡された時刻は22時。
ドアに手を掛けた現在の時刻は、その10分ほど前。

私が望むその人は、メディアに引っ張りだこの人気アイドル。そのため、予定の時刻から数十分どころか数時間でも遅れて部屋に訪れる、そもそも部屋に来ない可能性の方が高いと考えていた。

のに、それなのに、ドアノブを押し少し開いた扉の向こうには既に人の気配がある。

どうしよう、本当にあの人がいたら。
どうしよう、この話は鼻からおじさんの悪戯で、部屋の奥に怖くて悪い人がいたら。
どうしよう、どうしよう。

ここに来て、なんだか怖気付きそうになったが、ここでも彼に対しての狂信的な想いが私の行動を後押しすることになり、ドアをソッと部屋の方に向かって押した。


踏み入れた部屋は想像以上に広く、想像以上に綺麗な夜景が大きい窓の向こう側に広がっていた。

そして想像以上に美しく眩しい彼が、バスローブを纏った姿で丁度ワインボトルを開けようとしている。






「ああ…いらっしゃい」
「…」



あまりの美しさや明るさ、本当に本物の彼が目の前に立っていることに衝撃や歓び、未だ拭えぬ不信感など色々な感情がワッッと込み上げた。そのせいか、すぐに彼の言葉に反応することができないでいた。

「どうしたの、おいで。」
手はボトルを握ったまま、その場から動くことなく私を見てにこやかに微笑み、声をかける。
「あ、失礼します。」

私はゆったりと歩みを進めた。彼は目線を自分の手に移し、きゅっきゅっとボトルコルクを捻り始める。

なんだか彼の全ての動作や言葉に感動と衝撃を抱いてしまう。これじゃ今晩は持たないな。そうぼんやり考えながら一つ彼に尋ねる。家を出る前から気にかけていたことだ。
「その、私のことは…」
「あなたのことね。何も知らないよ。ただ君に会ってもらいたい女の子がいるんだけど予定は空いていないかと尋ねられて。それ以下もそれ以上も聞いていないよ。」
「…」
「だから、お名前教えてもらえますか?」
イヤホン越しで何度も聴いた柔らかい声で問いかけながら、私の顔をスッと覗き込む。

不意のことにどきっとてしまうが…。ちょっと待ってくれ。思考が追いつかない。私はてっきり性処理の役目を任されたんだと思っていた。そういうつもりじゃなかったってこと?いやでも、バスローブ一枚ってことはやっぱり…。
「ん?」
彼が私の顔を見ながら少し眉毛をあげ、もう一度ハテナを向ける。この状況をうまく飲み込めず、考え込んでに会話をすることを忘れてしまう。こんなに動揺してしまうのは、私らしくないなんて心の中にいる別の私が嗤っている気がする。
「内緒にしたかったら、それでも大丈夫ですよ。」
「いや、そういうんじゃなくて!てっきりその、」
夜の相手をするために呼ばれたと思ってここに来ました、そんなこと自分の口から言うのは気が引けたので口を紡ぐ。代わりに名前を伝えた。

「**さん、よかったらそこに座って。」
手の先には彼が立つ位置の向かい側にある一人用のソファだ。普段、おじさん達の相手をしているVIPルームのもなかなかだとは思うけど、このソファもよっぽど高級感が漂う。深い緑色の短い毛並みが私好みだ。
ありがとうございますと言いながら腰掛けると同時に、彼もソファを引いて私の目の前に座る。

トク、トクと音を立てながら彼の前の グラスに赤ワインが注がれてゆくのを目で追う。
「**さんは、ワイン飲まれますか?」
「ええ。」
よくしゃべり、よく名前を呼ぶ人だな。そんなことを考えながら短く返答する。
「良かった。俺、ワイン好きなんですよ。ああ、ウイスキーもありますよ。これも俺が好きでね。明日も仕事があるので沢山は飲めないですが。そういえば、俺の名前は「もちろん知ってますよ。もちろんです。」
「はは、それはありがとうございます。」


これきりだった。
彼が私自身について尋ねるのは。

名前と、お酒の好みと、自分のことを知っているか。
この3つだけ、尋ねられ、それ以上私について知りたいという体勢は見せなかった。

私もまた、彼に何かを尋ねることはなかった。
私にとって彼は唯一の明るみ、特別な存在である相手だ。本来なら、どのくらい仕事は忙しいのか、女性アイドルとの交友関係は深いのか、普段使っているシャンプーはなんなのか、この調子で彼の全てを知りたいと思う方が一般的な気もする。
だけど、私は彼に何かを尋ねることはなかった。
遠慮したわけじゃない、素直に尋ねたいと思わなかったのだ。理由は簡単で、目の前の彼が、彼の全てだと強く感じたからだった。これ以上知ることはないと、強く感じたからだった。

この記事が参加している募集

#404美術館

31,534件

#眠れない夜に

68,867件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?