(111)5世紀の倭地は統一戦の真っ只中

1115世紀の倭地

古墳と武人埴輪(上毛野はにわの里公園)

『書紀』オホササギ大王(仁徳)が百舌鳥・古市古墳群の大仙陵古墳の被葬者であるかどうかはさておき、4世紀末から5世紀の倭地はすべての地域で巨大な墳墓の築造が継続的かつ活発に行われていました。公共事業といえば土木工事で、現在は不況対策の代表格です。当時はどうだったのか、興味があるところです。

名前をあげたので百舌鳥・古市古墳群を概観すると、墳墓数は前方後円墳52、円墳50、方墳53、形状不明15の計170基(現存は131基)となっています。このうち大仙陵古墳は周濠を含めると全長840m(墳丘長5 25m)で全国最大を誇ります。

第2位は墳丘長425mの誉田御廟山古墳(羽曳野市:伝応神天皇陵)ですが、完成時の推定土量は143万立方mで大仙陵古墳を上回ります。 以下、同時期(歴史編年では「古墳時代」の中期)に築造された古墳のうち、墳丘部の全長が300mを超えるのは2基、200m超が19基、100m超は50基を超えるようです。

奈良盆地の磯城、百舌鳥・古市古墳群や物部氏の日下邑がある河内ばかりでなく、北摂、伊賀、吉備、毛野、常陸、日向にも確認されています。前方後円の墳丘形状がヤマト王権の象徴とすれば、その政治力が関東まで及んでいたことになりますが、ここでは次回以後の宿題としておきます。

1985年に大林組が試算したところでは、大仙陵古墳の築造に要した労働者は延べ680万7千人以上かかったとしています。10年で完成させるとしたら、1日当たり1864.9人です。200m級は半分の900人、100m級は500人、陪塚や周濠は50人として、10年間で13基を完成させるには1日当たり1万人超の労働力が投入され続けたのです。

石や土を運んで突き固めるだけでなく、石室を組み上げ副葬品を整え、埴輪を造形・焼成し墳丘や周濠に立て並べるのも築造の作業です。その作業に必要な器具機材、従事する労働者の宿所、食事、被服、それを準備する人手も必要です。そして何よりも設計チームや技術チーム、中長期の事業計画と作業を統括管理するプロジェクトチームがなければなりません。

1日当たり1万人超の労働者が100年間、営々と古墳の築造に従事していたことになるわけです。そのような数字を示すのは、「それほど大きな権力が存在した証拠」と言うためではありません。

指摘したいのは、その労働力はどこからやってきたのかということと、大きな墳墓を築造する傍ら、半島に軍兵を送り込むことができたのか、ということです。

律令体制下の防人は、ヤマト王権が及ぶ遠江以東の諸地域から、任期3年を限りとして毎年3千人(3年の累計で9千人)ほど徴発されていました。しかし、古墳時代中期にそのような中央集権的な制度があったとするのは考えにくいところです。

5世紀の古墳から武人の埴輪が多く発見されているのは、ヤマトタケル(日本武)に象徴される征服戦争が展開されたことを示しています。敗者となった側の兵士や農民が墳墓の築造に使役されたのでしょう。

4世紀末から5世紀の倭地は、群雄割拠・合従連衡を経て、権力がヤマト王統に集約していく統一戦争のさなかだったと考えたほうが自然です。朝鮮半島に軍兵を送っている場合ではなかったはずなのです。

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