見出し画像

短編小説 『下りた先』

こちらの作品は、2023年11月11日に開催された文学フリマ東京37にて、無料配布した作品です。

この作品は3つのお題をもとに作成しており、使ったお題は一番最後に記載しています。



━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━



 つい最近仕事を辞めたので、暇を持て余していた。ようやく夏日ではない日が続き、クーラー代を心配する必要もなく家でダラダラできるが、とにかくやることがなかった。
 退職したあとの解放感はほんの数日間だけで、その余韻がなくなると不安がすぐにやってきた。だが、働くことにだいぶ嫌気がさしていたので、もう少し休んでもいいだろうという、自分を甘やかしたい気持ちもあった。
 午後になって秋めいた日差しが部屋の中に差し込むと、朝に感じた肌寒さもいくらかましになっていた。窓から見える空は雲ひとつない、濃く、くっきりとした青色がある。日差しによってひだまりの香りになったレースカーテンを開けてじっくり空を見てみると、遠く向こう側にはちぎれた雲が点々とあった。部屋の中に何日も居たせいか、無性に外が恋しくなった。
 一週間に一回の買い物以外に外へ出ることもなかったし、特に目的もなく外に出る散歩などというのはこれまでに数回しかしたことがない。最近は運動不足だったし、何より今はやる気がある。これはいい機会だと思い、気持ちが変わらないうちに軽く身支度を整えてから外に出た。
 久しぶりに外の香りを嗅ぎ、日差しを浴びると急に、センチメンタルな気持ちになり、不覚にも泣きたくなった。初めて見る景色でもないのに、目に沁みる色使いが新鮮に見える。とりあえず、あまり人通りのない道を選んで歩くことにした。
 しばらくあてもなく歩いたが、案外楽しい。これまで散歩なんてと馬鹿にしていたが、考えを改める必要がありそうだ。
 途中、いつもは通り過ぎるだけの公園に差し掛かったので、誰も居ないか確認してから中に入る。すぐに、公園の奥にひっそりと建っている、電柱よりも少し高い塔が目に入った。展望台には見えない簡素な作りで、凹凸も窓もなく、まるで煙突のようである。何かしら意味のある塔なのだろうということだけは分かった。
 ふらふら公園の中を歩いていると、少し熱った体にかかる冷たい風が心地良い。それに伴ってついてくる秋の香りは哀愁を漂わせていた。
 誰にも遊ばれていないせいでただの冷たい造形物になっている遊具たちを尻目に、公園内に設置されている木製のベンチに座る。砂と落ち葉にまみれていたが我慢した。
 広々とした公園を見ながら落ち着くと、これからの不安について考え出してしまった。
 これから、どうしよう。
 良い心地の中で、絶望のことばかりを考えた。絶望と不安だけは、自分の中でいとも簡単に生み出すことができる。
 別のことを考えようと努力していると、誰かが走って公園の中に入って来るのが見えた。どんな人かを確認するよりも先に腰を上げる。誰であろうと、平日のこんな時間にふらふらしているのを不審がられるのが嫌だった。
 不自然にならないよう、少し体をひねったりしてストレッチをして相手の様子を伺う。入って来たのは、ふわふわ揺れるスカートを履いた少女だった。多分、小学校低学年だろう。ドレスとまでは言わないが、目立つフリルやリボンが付いていて、それなりに高価そうなワンピースだった。そんな綺麗な格好をしたまま公園で遊んだら、親御さんが怒るのではないかと少し心配になる。
 少女は軽い足取りでブランコに乗ると、数回漕いで、前に揺れるのと同時に飛び降りた。今度は滑り台の方に走って行く。服のことなどお構いなしに、元気に遊び回っている。どうやらこちらのことなど微塵も気にしていないようだ。
 少女から視線を外して、何となく散歩をしている風を装いながら、少し気になっていた塔に近付いてみる。すると、塔の出入り口のドアが二十センチほど空いているのに気が付いた。ドアには立ち入り禁止とも書かれていない。すぐ側まで近付いて様子を伺うが、何も聞こえてこない。パッと湧いてきた好奇心に抗えず、慎重にドアノブを握り、ゆっくりと回した。差し込んだ光を頼りに中を見ると、コンクリートで出来た螺旋階段が上と下に続いているだけである。よくよく見てみると、壁の下の方に長方形の白いライトが埋め込まれている。
 誰かが入っているのかと思ったが、耳をすませても、やはり何も聞こえてこない。もし誰かに会っても謝ればいいだろうと、螺旋階段を下りてみることにした。
 かろうじてある光が薄ぼんやりと足元を照らしているだけで、手を広げたらぶつかる程幅が狭い。ある程度下りてくると、どこまで下に行けるのか確かめてやろうという気持ちになった。
 何段下りたか分からなくなるくらい下りてきたところで、規則的にあったはずのライトが途中から消えていた。ただでさえ暗いのに、数歩先は真っ暗闇である。このまま下りるのは危険だろうと思う反面、目が慣れてきたから行ってみようかという気持ちもあった。
 冷えた風が後ろから吹き、少しすると、今度は正面から風が吹いてくる。まるで呼吸のようだ。じっと、光が途切れた先を見ていると、ジリジリと、暗闇が迫ってきているような気がした。そんなはずはないので、薄暗さで目が変になったのだろう。
 さてどうするか悩んでいると、階段に足を乗せる規則的な音が反響してきた。この塔を管理する人が来たのかもしれないと体を強張らせる。そのままじっとしていると、階段を下りて来たのは先ほど公園で見かけた少女だった。
 彼女は、おおよそ少女という年齢にしては険しすぎるという表情をしており、白っぽい光をしたから受けているせいで不気味さを増している。目が合うと、手首を思い切り掴まれた。
「こっち!」
 少なからず驚いているこちらの状況などお構いなしに、少女は手首をぐいぐい引いて、螺旋階段を上り始めた。
 ぐるぐる回るように、少しの先も見えない階段を上る。このくらいの階段なら大したことはないと思っていたが、次第に足が上がらなくなり、呼吸も荒くなってきた。だが減速するのを少女は許してくれず、掴んだ手首を引っ張られる。
 しかし、どうにもしんどくなって、少女に抵抗するように手首を引くと、少女は勢いよくこちらを振り向いた。薄暗い中で、少女のまろやかな頬の産毛がきらりと光る。
「早くしないと追い付かれちゃう!」
 言い終える前に、少女は慌てて手首を引く。ろくな抵抗もできなかったので、よろけながら階段を上った。
 数メートル先ですら死角になっている中、何かから逃げるように螺旋階段を上って行く。そんなに下りて来たつもりはなかったのに、まだ出口に着かないようだった。
 少女の軽い足取り、自分の疲れ切った足取り、洗い呼吸。その中に、聞き覚えのない音が混じっている。風の音だと思ったが、どうも様子が違う。水が迫りくるような、唸り声がまとまったような、恐怖を音にしたような感じであった。自分を呼んでいるような気もする。何かを言っているような気もする。怒っているような気もする。助けを求めている気もする。音が下から追いかけてくるような気もする。
 音の根源が気になったので、ちらと後ろを振り返った。
 見えない先に、何かが居るような気がする。
 このまま見ていたら恐ろしいものが、突然目の前まで距離を詰めて来そうだ。音は少しずつ大きくなっていた。
 すぐに前を向いて、階段を上ることに集中する。一度意識してしまうとたちまち輪郭を得たその感覚に、背中がビリビリした。
 だが、頭では分かっていても、体力はもう限界である。足が上がらず、コンクリートの階段に引っかかって何段か先に手をつく。少女を巻き込むまいと、握られた手をなるべく動かさないようにしたせいで、ついた左手首に痛みが走った。ついでに、両膝の骨も痛い。
「早く早く!」
「待って……先に行ってて、いいよ。あとから、行くから」
「追い付かれちゃう!」
 少女は駄々をこねるように地団駄を踏む。その音が響いて、耳から頭に突き刺さる。
 背後から、風のような悲鳴が聞こえてきた。絶望の声のようだった。その音はどんどん迫ってきていて、自分と、少女を飲み込もうとしているのだろう。
 自分はともかく、少女を巻き込むわけにはいかないという義心があった。少女は自分を見捨てず、ずっと手首を掴んでいる。それを裏切りたくはないと、喉がヒリヒリしたが、また階段を一つずつ上り始めた。
 その途中に出口があったが、少女は最初から興味がないようにまた螺旋階段を上る。
「出口過ぎちゃったよ?」
「今出ちゃダメ!」
 ぐわんぐわんとたくさんの音が反響する中で、少女の引っ張る手だけを頼りに足を上げた。疲労でいっぱいになったせいか、逆に頭の中はスッキリとしていた。
 すると、出入り口と同じドアが現れた。少女はためらうことなくドアを開ける。そこから光が溢れ出ると、一気に視界が開けた。
 どうやら塔の屋上に着いたらしい。それと同時に少女は手首を解放したので、少し変な感じがした。屋上には腰くらいまでの、コンクリートの塀がぐるりとあるだけである。
 急に止まると一気に力が抜けてその場に崩れ落ちそうになったが、どうにか膝に手をついて立つ。少女は開けられたままのドアを数秒間睨みつけてから塀の近くまで行き、下を覗き込んでいる。
「何から、逃げてた、の?」
 息も絶え絶えで声量がなかったせいか、少女からの返事はなかった。じっとしている少女の側へふらふらと近付き、同じように下を覗き込む。落ち葉がちらちらと淡白な公園を彩っているだけで、誰も居なかった。
「何から逃げてたの?」
 息が落ち着いてきたので、ようやくまともに言葉を発することができた。少女はさらさらとした髪をなびかせながら振り向くと、つぶらな瞳がこちらを射抜く。「昨日もね、お姉さんが下りてっちゃったの。助けようと思ったんだけど」
 少女はそこで言葉を切った。
「どうなったの?」
 少女は首を左右に振る。
「死んでないけど、ずっと苦しいだけ。階段を上ってくればいいだけなのに、上る勇気がないの。お姉さんは下りる方が楽だからって、下りて行ったの」
「じゃあ君は、そのお姉さんみたいにならないように助けてくれたの?」
 少女は小さく頷いた。その表情は、何か悪いことをした告白をして、怒られるのを待っているかのような表情である。
「ありがとう」
 そう声を掛けると、少女は口元から嬉しさをこぼしながら、照れくさそうに笑った。
「あのお姉さんはね、大丈夫だよ。いつかきっと、階段を上ってくると思う。下まで行っちゃったら、私は助けられないの。そうなったら、お姉さんが自分で階段を上って来ないとダメだから」
「下には、何があるの?」
 少女は少しだけ黙って、首を傾げた。
「あいつらはどんな場所でも、自分たちのところに人が来るのを待ってるの」
「あいつらって、誰?」
「誰でもないよ。下に来た人たちを捕まえちゃうの。捕まっちゃうと、なかなか逃げられないんだって」
「何だか絶望みたいだね」
「分かんない」
 少し強い風が吹いて、近くにあった木にしがみついている葉がざわめく。耐えきれなくなって飛ばされてくる葉がチラチラと視界を彩った。
「もう帰る。下りるときは気を付けてね」
 言い終わる前に少女は階段に向かって走りだす。止める間もなく、そのままドアの向こうへと消えてしまった。あいつらのことが気になったが、彼女なら大丈夫だろう。
 ぼんやりと、遠くにある家々の屋根たちを目線で撫でていると、あっという間に塔から出てきた少女の頭が視界に入った。彼女は公園の出口まで走って行くと立ち止まって、こちらを振り返った。
 たった数秒、遠くにいる少女と目が合った。少女はその小さな手を控えめに振ると、また走って公園から出て行った。西日を受けてきらりと輝く髪が動きに合わせて浮き上がって沈むのを、見えなくなるまで見つめた。
 耳をすませると、微かに自分を呼んでいるような声がする。だが、まだまだ遠くだから、とりあえず大丈夫だろう。
 少女の消えた先を見つめたまま吸いこんだ空気は、湿っぽく悲しい、落ち葉の香りがした。














お題『少女』『螺旋階段』『散歩』

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?