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政治講座ⅴ1193「米・中・ソ外交におけるキッシンジャー外交の終焉」

 今日の友は明日の敵。今日の敵は明日の友。優柔不断、国益第一主義で、孫子の兵法も顔負けの君子豹変する米国には油断できないのである。日本もいつ米国が日本を敵視してくるか分からないのである。過去の日米貿易問題では険悪な関係になったこともある。どうも米国と言う国は節操のない国のように見えてならないのである。その例がキッシンジャー外交を俯瞰すると見えてくる。そして、変幻自在に変化するのが米国である。今回はその一端の報道記事を紹介する。米国は左から右に方向偏向しつつある。

     皇紀2683年7月3日
     さいたま市桜区
     政治研究者 田村 司

岸田首相 米キッシンジャー氏と会談 中国の動向など意見交換か

2022年10月26日 21時10分

岸田総理大臣は26日、日本を訪れているアメリカのキッシンジャー元国務長官と総理大臣官邸で会談しました。中国の動向や核軍縮の取り組みなどをめぐって意見を交わしたものとみられます。

ことし99歳となったアメリカのキッシンジャー元国務長官は26日午後、車いすで総理大臣官邸を訪れ、岸田総理大臣とおよそ30分間会談しました。

具体的な会談内容は明らかになっていませんが、松野官房長官は、記者会見で「国際情勢について、一般的な意見交換を行ったと承知している」と述べました。

キッシンジャー氏は、ニクソン政権時代の1971年、密使として中国を訪問し、アメリカと中国との国交正常化に道筋をつけたとされています。

また「核兵器なき世界」を目指したオバマ元大統領に影響を与えたことでも知られ、岸田総理大臣との会談では、最新の中国の動向や、ロシアのウクライナ侵攻などを背景に厳しい状況にある核軍縮の取り組みなどをめぐって意見を交わしたものとみられます。

キッシンジャー氏、世界を語る「日本は核保有国に」

2023.6.6
5月に100歳の誕生日を迎えたヘンリー・キッシンジャー氏に、英エコノミストがロングインタビューを行った。同氏は、米中関係の望ましいあり方など、現在と未来の世界情勢について長い経験に基づく知見を語った。ウクライナのNATO加盟や米中対立がもたらす戦争の危険など、8つのテーマについて同氏の言葉を抜粋した。

1979年の米中国交正常化に道を開いた見識に今も人々が注目する(写真=AP/アフロ)

 2023年4月下旬、本誌(英エコノミスト)は2日間、計8時間以上にわたり、ヘンリー・キッシンジャー氏との対談に臨んだ。米国の元国務長官であり、国家安全保障担当の大統領補佐官も務めた同氏が、米国と中国の関係修復という喫緊の課題をどう見ているのか。それを論評した記事は本誌に掲載済みだ。また、インタビューの全文は本誌電子版に掲載した。

 以下に、そのハイライトを紹介する。8つのテーマに関する同氏の発言である。

 キッシンジャー氏は、ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領を「非凡な指導者」と褒めたたえた。ウクライナをめぐる中国の外交努力を歓迎する賢明さを持ち合わせているというのだ。

 また、ウクライナの北大西洋条約機構(NATO)入りについて、反対の立場から賛成へと意見を変えた理由を説明し(それはロシアのためにもなるという)、欧州諸国の首脳がウクライナの加盟をためらうのは間違っていると警鐘を鳴らす。

ジョンソン政権までの外交政策は、国務長官が決定権を握り、国家安全保障担当補佐官は調整役とされてきた。しかしニクソンとキッシンジャーは国家安全保障会議(NSC)が外交政策の決定権を握るべきだと考えていた(キッシンジャーは1968年に発表した「官僚と政策立案」と題する論文で、アメリカ外交の機能強化のためジョンソン政権下でほとんど有名無実の存在と化していたNSCの活用を提案している)。
ニクソンの命を受けたキッシンジャーはNSCのスタッフ(特別補佐官)に若手の外交官、軍将校、国際政治学者をスカウトして組織した。キッシンジャーからNSC特別補佐官にスカウトされた人物には、アンソニー・レイク、ローレンス・イーグルバーガー、アレクサンダー・ヘイグ、ブレント・スコウクロフトなどがいる。

キッシンジャーは、国務省などと激しい権力闘争を行い、ニクソン政権ではNSCが外交政策の決定権を独占することとなる。特にウィリアム・P・ロジャーズ国務長官を重要な外交政策から排除してしまった。キッシンジャーは、NSC特別補佐官のほかに大使、駐在武官、CIA支局長などをNSCの手足として用いていた。

後述する1971年の極秘訪中の際も、キッシンジャーはロジャース国務長官と国務省に一切知らせずに、フランス、ルーマニア、パキスタンなどに勤務している駐在武官やCIA支局長を利用して秘密裏に北京に到着した。北京では、中華人民共和国側の英語通訳に依存して交渉が行われた。

冷戦政策の再構築を意図したニクソン政権期の外交の中で、キッシンジャーは重要な役割を果たした。
1971年にはニクソンの「密使」として、当時中ソ対立でソ連と緊張状態にあった中華人民共和国を極秘に二度訪問。周恩来中国首相と直接会談を行い、米中和解への道筋をつける[。一方で、この中華人民共和国との和解を交渉カードとして、ベトナム戦争終結に向けた北ベトナムとの秘密停戦交渉や、ソ連とも第一次戦略兵器制限条約(SALT1)を締結するなどデタント政策を推進した。また、同時期の第三次印パ戦争ではソ連の影響力を抑えるためにニクソン訪中の仲介国でもあったパキスタンを中国とともに支援した。
1973年には毛沢東中国共産党主席はキッシンジャーとの会談で米国、日本、中国、パキスタン、イラン、トルコ、欧州によるソ連包囲網の構築を提案した。

このような大国間関係の動きと連動して、ニクソンとキッシンジャーは1960年代から1970年代初頭のアメリカにとって最大の外交問題であったベトナム戦争の終結にも成果を納めた。アメリカが中ソと関係改善を行い、その結果、ベトナム戦争において中ソ両国の支援を受けてアメリカと対峙していた北ベトナムを外交的に孤立させ、同時に大規模な北爆の再開や機雷封鎖などで軍事的にも追い込み、アメリカはジョンソン政権時代の1968年5月よりパリで暗礁に乗り上げてきた和平交渉妥結に成功した。
ニクソンの訪中から3か月後に行われたこの北爆再開と海上封鎖も中国の了解を得たとベトナム共産党書記局員で党機関紙編集長も務めたホアン・トゥンは証言している。
1973年にはパリ協定が調印され、ベトナム戦争終結への道筋をつけることとなった。
こうした流れを促進した功績が認められ、アメリカ交渉団の代表であったキッシンジャーはノーベル平和賞を受賞する。

また、第四次中東戦争後は積極的に中東地域を訪れてアラブとイスラエルの調停を行う「シャトル外交(英語版)」を展開し、1974年にはアラブ諸国の盟主でイスラエルの敵国だったエジプトのアンワル・サダト政権をソ連から引き離して親米化させて軍事援助および経済援助を与え[、サウジアラビアのファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ第二副首相兼内相と会談して原油をドル建て決済で安定的に供給するサウジに米国は安全保障を提供する協定(ワシントン・リヤド密約)を交わしてオイルダラーを確立させてドル防衛に成功した。アフリカでのソ連の影響力排除を目的にエジプトとサウジアラビアなどが結成した反共同盟サファリ・クラブ(英語版)も支援した。

参考文献・参考資料

岸田首相 米キッシンジャー氏と会談 中国の動向など意見交換か | NHK | 中国

ヘンリー・キッシンジャー - Wikipedia

キッシンジャー氏、世界を語る「日本は核保有国に」:日経ビジネス電子版 (nikkei.com)

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