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「ほぐしばい~実話怪談編~」のつくりかた【稽古一周目 中尾さん→涌田さん→浅倉さん】

6月に円盤に乗る場で開催されるNEO表現まつりでの発表を目指して動き出した、「ほぐしばい~実話怪談編~」
前回は演出協力のみなさんとオンライン行ったキックオフミーティングの様子でした。
今回はいよいよ乗る場でお一人ずつと行った対面での稽古です。
はたして、「もみほぐしは演技に変換可能か」
「演技に見えるもみほぐし」とはどんなものなのか。
サロン乗る場までの「もみほぐしに見える演技」で定義した
・目的を定めて
・息を合わせて
・行為する
を辿る形ではなくなった、試行錯誤の記録です。


こんなスケジュールでやってました!

一回目の稽古 中尾さんと

■→主に中尾さん。
※稽古記録に、辻村が加筆しています。

ー通しで読むー ランタイム:20分)
まず通して声に出して読んでみました。何のよすがも方向性もなく、ただ音読。スタンスを定めずにただ声に出して読むのを見てもらったのですが、自分では「どうしたらいいんだろう、はずかしい」とモジモジしていました。音読する時に主に使っている体の部分以外は持て余して、そこを「持て余してるな」と意識すれば、今度はそれ以外の部分で持て余しが起こる。まるで引き出しをひとつ閉めると他が開く、閉まりの悪いタンスになったような気分でした。

■聴く自分の体を意識する時
体の中の忘れてる部分。ある部分を思い出すとある部分は忘れる、が、いたる瞬間で起こる。したがって、体のその全体像が結ばれることがない。結ばれないことを通して自分の体を意識している。
■パフォーマンスを聴いている時も同じなのでは。見るという体験の中で起こる腰やおしりの痛み。副産物的な感覚が起き続けているが、聴いている時に使っている体の感覚はわずか。
■”聞く時間”という負荷がある。話されることを聴く時は、理解する必要に迫られ、脳にベクトルが向かう。
→〇わかるための時間(負荷)を乗り越える必要がある。ここがビートのある音楽と、演劇の大きな差でもある。

■見ているパフォーマーの体を意識する時
聴衆の感覚がパフォーマーの体に憑依するような感覚。辻村の服の襟元が開いていた。のどの筋肉や呼吸する肉体を見てしまう。存在感のあるものに目が行く、自然の認知。
■スターとは制作可能な実体。
人間の自然な認知と文化。
スターは、「思わず見てしまう」
自然ともいえる現象を逆手にとっているのではないか。
■文化とは嗜むことが前提となっている感覚。わからなければと楽しめないものは平等ではない。たまに見に来る親戚の作品の文脈や背景とは関係のない感想のありがたさある。
■スターとは文化の土台にありながら自然の認知をよく知っている人たちなのでは。舞台に上がった時にパッと観客に「かっこいい!」と思わせる。観衆の自然を扱える人なのでは。

■自然の認知に沿う
手あかのついた自然(自然とはこうあるだろうというリアリズム演技的手法)をいかに持ち込まずに、もっと生物学的な言語以前の自然に沿わすことがどうすれば可能か。
■自分の体がきれいに見える服を着る。明らかに美しいと感じるような化粧をする。露出している服。胸元が空いている。見ちゃう。刺さってくる。そうなっちゃう、ということを利用する。
■今日の辻村の声がかすれていることの物質性。かすれ。聴いちゃう声。稲川淳二の聞いてしまう声のかすれ(この日、私は風邪で声がかすれていた)
■俳優の体の意識されてる部分と忘れられてる部分。隙。エロさ。
俳優自身が態勢がしんどいのをフォローするのに無意識で足の指が動いているのを、観客は見世物として見ることができる。
今回の音読では、読んでるときに忘れている体の部位を思い出したり動かしたりして体を持て余した。
■必ずどこかが過剰だし、必ずどこかが不足しているものだ。
持て余す感じは大事にしていきたい。全てを意識化に置いてコントロールことができる事こそが優れた俳優の技術、というわけでもないのかもしれない。
■朗読の外部化された「紙」という持て余し。めくる。意識がたわんでいる。物理的に量が進む、減る。めくる。声や意味が表しているものとは別の表れをそこに見て取れる。
■俳優が掌握できているもの以外で、パフォーマンス中にケアしなきゃいけないものが増やせるといい。
■もみほぐしだと、施術者が被施術者のあまりケアしていなかったところ(普段はあまり意識していない部位)をケアすることによって起こる気づきとほぐれ→リラクゼーション店で提供される非言語のサービス
■現代口語劇的な意識の拡散を促す演技術によってではなく、もっとケアできる目のつけ処があり、その結果観客の意識が拡散されるような仕方がよいのではないか
■観客の意識の拡散が起こるとなぜ良いと思うか→一か所がケアされると、釣られて他の箇所もほどけるような事が起きうる。
■舞台と客席の間の第四の壁は、ここから先はケアしませんよ、ということ
■ケアはマニュアル化できない。その場で起きたことに対する反応。たまたまその瞬間に起きたことに対する嘘偽りのない反応。
■その場で起きたことに反応しつつ、すでに決まったパフォーマンスを行う時、俳優は中動態的である。

ーここまでのミーティングなどで出てきた言葉を並べてみるー

個人名だったりする所はぼかしてあります

演出協力のみなさんとのキックオフミーティング3回でドックスに記録した言葉と、その日の稽古で出てきた言葉が、私の中でだいぶ溜まってきていました。違う人とのミーティングで話していたことが別のタイミングで繋がりそう。一度可視化してみよう、ということで、キーワードを付箋に書き出し、それを模造紙に貼っていきました。
写真中のピンクの付箋は中尾さんがご自身の言葉を。それ以外の黄色い付箋は、辻村がそれまでにドックスに録っていた記録から人毎に文字の色を変えて書き出しました。
(文字色:緑→辻村、ピンク→涌田さん、茶色→浅倉さん、青→碧さん)
ざっと書いて似たものを群れにしながら貼り、そこから、それら言葉の群れ同士はどんな関係にあるか、中尾さんと考えました。
何度かの付箋大移動を経、さらにそれぞれの群れがどのように関係しているかを線でつなぎ、写真のような形になりました。

一回目の稽古 涌田さんと

■→涌田さん
◯→辻村
※同じく稽古記録をnote掲載用に辻村が加筆しています。

ー辻村が涌田さんを20分もみほぐしー
中尾さん、浅倉さんにはもみほぐしを受けて頂いたことがあったのですが、涌田さんにはまだ。という事で、稽古の最初に涌田さんに「演技ともみほぐしの共通点」についてのレクチャーを聞いてもらった上で、もみほぐしを受けていただきました。

■触れる/触れられるを通して、接地面を一緒に作ってると思った
・能動と受動のグラデーションがあった。どちらか一方ではない。どちらもある。どちらかがリードするでなく、たがいに触れ合っている感じ。
・観客として作品を受け取る時の感覚と似ている
・一緒にやっているという感覚があった方がほぐされやすい

■世界を鮮やかに味わうための体がとりもどされる
・ゆるむことで体の感覚が開く。演劇を見た帰りに体と心ががふかふか柔らかくになっている感じ。それが世界を味わえる体を取り戻せてるってことかも
■芸術を感受することと、もまれてほぐれることは違うかも
・もみほぐしを受けると気持ちいいとかほぐされるという目的がある=快の感覚。はっきりしているが、演劇やダンスは体が色んな事を味わう。味わうの中に気持ち悪い、不快なものも混ざっていて、接地面で何が生まれるかが未知であるってことが、もみほぐしと芸術を受け取ることの大きな違いなのでは?
つじこさんにとってお客さんがほぐされる、とは?ゴールは?
〇もみほぐしというのは実は他の人と共有するための方便だったことを思い出した
〇本当は、ドープなところにどっぷりもぐって再浮上したときに背骨がもとの位置に戻っているような感覚
〇一回死んで生き返るような。深い眠りからの寝起きにある「あれ?私誰だっけ、ここどこ?」の状態からから少しずつもう一度世界に馴染んでいく感じを劇場体験の中で起こしたい。劇場をあとにする時に、世界が鮮やかさを取り戻しているような観劇体験。

ー涌田さんに辻村を10分触れてもらったー
■体と声は涌田さんの中では同じ。声も体に含まれている。全部ある。
■一部が切り離されている感覚がむしろ新鮮

〇もしかしたら別の機会には別の仕方でお客さんに世界の鮮やかさを取り戻させる演技が可能かもしれないが、とりあえず今回は直圧・リズミカル・体重移動。加えてみなさんと話したことの中にヒントを見ている。
〇見終わった後に世界が鮮やかさを取り戻していればいいので、観劇中に感じる味わいには色んなものが(たとえ不快なことでも)あっていい。

■状態をうつす、うつる
・涌田さんは、お客さんとコミュニケーションがとれる状態にするのに、いつも粒のイメージを使っている。(※涌田さんは体を粒にするワークというのを行っていて辻村もWSで体験させてもらった)
・基本的に粒で開いて、空間と自分の粒を混ぜる、空間を通してお客さんの粒とも繋がっている感じ。対人というより、世界の中にお客さんの体もある。そのイメージだと自分が捉えやすい。

ー体を網と粒にするワークをして、通して読むー ランタイム約30分
■揺らぎ続けるからだ。人の話が繋がってく中でゆらぎつづける
■声が体の粒が空間の粒に伝わって広がって届いてくる感じ。声でほぐされている感じ。心地よかった。
〇水の空間(※これもワークの中に出てくる言葉)が広がる=今日の世界、今日の相手役を確認する時間
■ゆらぎ。声のゆらぎ。いくつかのエピソードの中でくっきり質が変わるんじゃなくて移り変わっていったのが目が離せなかった。
■粒が広がっていく→キが浮いてるという言葉の時に背骨が動いてキュッと集約したり。空間の質が変わっていく。どんどん広がっていくのもできるし、イチゴ飴らへんで、粒が広がってく感じから自分の内側に入ってく感じ。見てる方もその移り変わりがおもしろい
〇言葉に反応していた。言葉に反応すると感情が出ることもある
■目が合ったりするのはドキッとする。劇的。粒の時間があったから、急に目が合う事には違う強度を感じた。
〇空間が二重に感じられる事があった。今ある乗る場の空間とテキストの中にある世界。特に電話ボックス。自分の中で乗る場と夜の広場が重なって存在する感覚。
■電話ボックスの時、抽象的に浮いている右手や足に、重なっている空間を感じた。
■意図があってした動きではないたまたまの動きに真実味を感じた。残る。
■言葉のムードが体や声に乗る質感は伝わってきた。粒のまま人間でもいられるし、感情も乗せられる。
〇これまで演技にとって感情を特別視していたかも。言葉から受け取るイメージと感情を分けて考えてた。言葉のイメージを扱うのと同様に、言葉を受け取って生まれる感情もイメージと対等に扱っていいかも、という発見。
■イメージと感情がくっきり分かれているのではなく、混ざりあっているのが面白い。どっちでもない。変容し続けている。
〇テキストから受け取ったものは、空き地の雑草のように精査せずとりあえず全部感じるままにさせてみる。(これは表現にとって有効な感受の仕方か、などと考えずに)
〇粒の方向性が変わった時にそうじゃない部分に声をかける自分がいた。昨日の中尾さんの「ケアできなさ、もてあまし、くるぶし」と涌田さんの「こっちが伸びたらこっちが縮む」の声掛けが自分の中で繋がった。
■エピソードや瞬間によって粒の密度が変わる。
〇自分の粒が世界に広がっていくのなら、このテキストの中にあるフィクションも、その世界の中に含めたい。
■粒が感情にいってるときはテキストにあるドラマに集約されてるように見えた。フッと現れる事もあれば、混ざってることもあった。同時に色んな層があった。
〇この上演の完成度を上げたいのではなく「ほぐしばい」とは何なのかを探して掴みたい
■(こわさどうでした?)色んな質感のこわさ、色んな所に怖さを感じた。体の質感にこわいというより不安感。感情の密度が上がって言葉の内容のこわさがダイレクトに来ることもあった。
■不快感はなかった。味わい深い怖さ。

■怪談は世界の見え方が変わる
〇そのトイレも廊下もずっとあったはずなのに、怖い話を聞いた夜は行けなくなる。それは怪談によって認知がかわってしまったからなのではないか。
〇怪談にしたのは、恐怖(認知が解体される不安)を通して認知が再組成されたとき、その後に世界が鮮やかさを取り戻すのではないか。
■未知との出会いは喜びとこわさがセット

上演形態は朗読ですが、今回も稽古場に施術台はデフォルト


こちらは、その日の午後に行った涌田さんのWSリサーチでの様子
葉っぱの形から受けるセンセーションを声で表す、葉っぱカラオケという遊びを発明しました

一回目の稽古 浅倉さんと

■→浅倉さん
〇→辻村
※同じく稽古記録をnote掲載用に辻村が加筆しています。

・「煙鳥怪奇録」あの日三題を浅倉さんに読んでもらう(今回のテキストの由来を説明)
・吉田悠軌著「一生忘れない怖い話の話し方」チラーポイントを読んでもらう
・今日やりたい事は戯曲読解
・中尾さんとつくったマップを見ながら話す

ホワイトボード、模造紙、印刷物、参考図書。あらゆる場所に言葉が広がっている様子

■浅倉さんが某演出家から聞いた、「誤読」という言葉のはなし
■意味的な解釈や正しい読解ではなく、テキストから率直にイメージを受け取る。「誤読」をきっかけに意味を理解しようとする息苦しさから解放された上演が実現可能なのではないか。

ー声に出して読んでみるー 
■色んな層がある。お客さんに話す層、少し物語が始まる層、完全にここではない場所の話をする層。話しかけたり没頭したりしている。
■エピソードが変わるごとに主体が変わる
〇今ここでしゃべってる人は誰なのか、プロローグでは名乗ってなくて、その間にも伏せられていて、最後のエピローグで名乗るようなイメージ
〇「私」という一人称は出てくるが、それはつねに「まさに今喋っている俳優自身」を指しているわけではなく、つねに(仮)で、他の誰かを借りて喋っている。
■名乗らないのにすごいホスピタリティ。めちゃめちゃ感じが良いのに誰かわかんない
→〇たしかに。その、感じが良いのに匿名性が高い、という所に、なんとなく柿内さん自身から受け取る印象も思い出した

つづきも声に出して読んでみるー
〇俯瞰してる時は敬語じゃない。雨林さんの口調だけ敬語
〇「」のところの演技どう扱うか
■「」のところはその人として喋るとか
■体験エピソードは子供のころが多い
■細かな描写が気持ち悪い。「キ」は特に。
〇なんでこのエピソードの数なんだろう
〇なんでこの並びなんだろう
〇エピソードの連なりに、なだらかなイメージの連鎖を感じる

ーチラーポイントを考えるー
チラーポイント=取材した実体験談の中でも、まさにその話を怪談たらしめる重要ポイント(
吉田悠軌著「一生忘れない怖い話の話し方」より)
■チラーポイントありそうなエピソードとチラーポイントないかもなエピソードで分けて考えてみる
■電話ボックス視点が逆転してるような感じ。話の外にあったはずの視点がいつの間にか話の中に入っている。
■思い出しながら話しているシーンから、さらに話している話の中に入っていくような二段構造?になってるエピソードがある。電話ボックス、写真
◯「今語っている人、と記憶の中にいる語られているその人」を、さらに他人が語っているという重なり
■「後ろ向きに」夢かもしれない。背景が夜で暗いところなどが「電話ボックス」と繋がる。
■「後ろ向きに」基地があった森、とは、「この感じ」で書き変わった後の地面

中尾さんとのマップを眺めるー
・「二重性」やっぱ今回超大事!となった。
・エピソードによっていろんな二重性がある
■「写真」と「森」は場所の話
「写真」記憶と歴史が積み重なっている場所、と思い出して語っている「私」と、今ここで喋っている俳優の重なり
「森」はまさに森そのもの、暗闇の場所、と思い出して語っている「私」と、今ここで喋っている俳優の重なり
■「この感じ」からの四つはセットと捉えてもいいかも

それぞれのエピソードに感じた繋がり、あるいは途切れをホワイトボードに書き出してみた

文章に書かれている内容以外にも、読んでいく時間やエピソードの順番から受け取るものがある!となり、そのモヤモヤを一度書き出してみました。
いわゆる演技プラン、よりもっと手前にあるものような感じ。演技するための何かというより、読んだ時に内側に起こる動きを表してみた、という方が近いかもしれません。

ー通して読む(タイトルなし)ー ランタイム:約25分
〇「この感じ」から続く四エピソードは、もう一段階私が演技を深く考えられるような要素が欲しい。まとまりと捉えることは的確なのだろうか?
■ホワイトボードに書かれたことをちらちら見ながらやるの面白かった。話の変わり目で目線が必ず一点を見る動き。繰り返されると、怪談の内容と相まって、だんだんその目線の先になんかいる?って錯覚しそうになった。
■パタパタ動く足を見ちゃう。そういったテキストの展開とは関係なく動く身体に意識がいっちゃうことありながらも、言葉は聞こえてきた。
◯→このあたりは、先の中尾さんとの稽古で出た、自然の認知を逆手に取る事で可能になる、スター性の制作ととても繋がる。
〇当たり前だが、音読すると体が行っていることの影響が見る側にとってもやる側にとっても大きい。体、持て余すなあ。もじもじ。

ーおぐセン2階を拝見して解散ー
〇稽古一周目おわったー!という感じ。やはり稽古を一緒にやる人によってまったく異なる所に光が当てられていると感じる。上演、ほんとに自由だな
〇ある人の稽古の時に起きたことを、他の人に話す=語りなおす機会があることによって、何か自分の中に「ほぐしばい」の概念が錬成されていく感じがある。
〇一つの目的に向かって複数人がせーので協働するのとは違う仕方で、しかも自分は俳優の立場のまま上演を立ち上げるという仕方。そのやり方の感じがこの三回で積み重なった。
〇やはり自分は今回のような「語り」の演技の上に、さらに会話劇に挑戦したい思いがある。
〇読んでいる時は、いくつものレイヤーが並走している(文章の意味・イメージ・体の反応・演技としての動き)」
■一つに決めないままが良いのでは。難しいかもだけど。
→これは、中尾さんの稽古の時にお聞きした「■第四の壁はここから先はケアしませんよということ」というのと繋がるのではないか。振り切る事によって獲得できる強度。振り切らないことによってゆらぎつづける状態。

一周目おわり!

こんな感じでお一人ずつと始まった対面稽古。次回は2周目の稽古の様子をレポートします!

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