見出し画像

「頭の良さ」に秘められた偏見

MBTIは、高学歴になるに連れてN型が多く見られるというデータがしばしば出ている。現に、マイヤーズの著書に書いてあるし、MBTIのマニュアルにも書かれていることだ。IQテストの成績と学校での成績も、やはりN型がいいという。しかし、その成績は一体何を測っているのか、と考えたことはないだろうか。

IQテストだと、テスト項目を見れば分かる。
パターン認識の速さ、複雑なロジックへの理解能力、記憶の量と精度と呼び出しの速さが測られる。
学校のテストは、暗記能力と教わった知識を適用する精度と速度が測られる。やはり抽象化がメインのようだ。
我々の社会は、抽象化能力の強い者たちを「難しいこと」を考えるから「頭がいい」という風に定めているらしいが、果たして本当にそうだろうか。

抽象化=頭がいい?

こう考えてみてほしい。

抽象化することによって、現実から取り入れた情報をある程度削ぎ落としているのだ。物事を脳内で再生するのに困らない程度に情報を勝手に端折った、とも言える。

物事をありのまま取り込む人のほうが、実は処理する情報量が多いことにならないだろうか。

実は、頭への大きな負担を課していても耐えられる人間は、物事を抽象的に捉える人ではなく、ありのままの現実を受け止めている人なのでは?

抽象的に物事を考える人たちこそ頭が悪いのでは?

こういう考え方にも、大きな誤りが含まれている。

人間が処理し得る情報量

そもそも頭の良さとは何なのか。成績という点で見ると、定められた時間の中で人間が処理できる事柄の数、と定義できそうだ。

しかし、処理できる事柄の数は、情報の種類とは関係ないのだ。確かに、風景を見つめていると、端折るのと端折らないのとでは脳への負荷が全然違うだろう。

私は海を見ている。霧の向こうに島らしきものが見えた。

と、

水面のキラキラはゆらりゆらりとしていて、肌には湿っぽくて生ぬるい風が撫でてきて、雲は紫と赤と青と桃色で彩られている。キラキラの上には白みが漂っていて、そのモヤモヤの向こうには黒い塊が見える。

とでは刺激の量がまったく違う。

しかし、この例があまりにも不公平であることに気づいているだろうか。抽象的な捉え方が短く済むとは限らないのだ。こんな風に情報量を揃えることは可能だ。

私は海を見ている。霧の向こうに島らしきものが見えた。このどうしようも詰められない距離感は、人類がいかに小さい存在なのかを思い出させる。かつて何千年、何万年ものの間、私のようにここに佇んで人間の無力さを見つめた人はどれだけ居ただろう。

これだけを見ると、処理する情報量は個人の気力と関心次第だ、と結論付けたくなるかもしれない。

しかし、そうではないと思う。

頭の良さとは?

もう少し根本的に見てみよう。

我々が生きている間は常に外界からの刺激を否応なく受けさせられる。寝ている間も、五感が何も感じなくなったわけではない。脳が上手い具合その膨大な量の情報を合体させたり切り捨てたりして、ようやく過剰に反応しなくて済ませているのだ。

刺激の量は、五感の感度と人生の長さで決まる、と導き出すことができる。

結局、我々の頭が処理し得る情報量は、脳の処理能力も含めて体で決まるのである。

頭の良さなんて、人間が勝手に事象を「事柄」に分割した上で出来た概念だ。

「事柄を多く処理したほうが頭がいい」とか、

「物事の本質が見抜けるほうが頭がいい」とか、

「決断の速い人が頭がいい」とか、

そんなの社会的な決まりのレンズを通して初めて意味を成すもの。

ならば、本当に存在するのは「知能」ではなく、「社会の期待に見合った考え方」なのではないだろうか。

MBTIの元となった理論を作ったユングは晩年、論文にスピリチュアルな文献を引用し、仮説に組み込んだことで、科学ではないと学会からは遠ざけられている。
ノルウェーの王女であるマッタ・ルイーセは、霊媒師との結婚や天使学校の設立などの行動でノルウェーの国民に理性を残念がられている。
もっと身近な例を挙げるならば、日本では「ごんぎつね」の読解問題の返答が一時注目を集めていた。「想像力」や「行間を読む能力」などコミュニケーションに特化した能力が褒められることなく、「若者の読解力の低下」というネガティブな解釈ばかりが流れていた。

歴史を見れば事例はもっともっとたくさん見つけられるだろう。能力が他者から使えないと思われると、頭が悪いという括りに入れられてしまうということだ。

才能の偏り

処理能力は五感の敏感さで決まり、頭の良さは社会に役に立つかどうかで決まる、という考え方は上に言った通りだ。

実際の処理能力は身体能力の一部だということになるが、それを測定する方法は外部からの脳スキャンくらいだろう。一人ひとりの生活に活かせるまでに研究が進むことは、おそらく私の生涯では目に当たるまい。ここは、研究者たちのほうが適任と割り切って、「頭の良さ」だけについて考えていきたい。

一つ、勘違いしてほしくないことがある。それは、「頭の良さ」が全人類平等に配られていること。

得意分野が人それぞれなのは、学校に入ったことのある人間であれば、仕事をしたことのある人間ならば、嫌でも目に突きつけられたことだろう。
「頭が良い」を「役に立つ処理能力を持っている」と定義すると、役割の分だけの頭の良さがあることが分かるはずだ。

例えば、会計士は計算の効率を保つために、数字を処理する時の正しさや速さなどが求められる。

例えば、カウンセラーは患者の不安を取り除く治療のために、感情を読み取る能力や心の異変を特定する能力、安心させる言葉を見つける能力などが求められる。

例えば、占い師はクライアントの悩みを解決するべく、未来視する能力だけでなく、感情や要望の読み取る能力や人間関係のいざこざを予測する能力、クライアントを問題解決へと導く能力などが必要になる。

こうして定義付けられた「頭の良さ」は決して、均一でも没個性でもない。

人間社会には、役割も役に立つことも多すぎる。

SNSが感情を増幅させていくに連れて、むしろ堅実に合理性や整合性を突き詰めた人間は価値を失いつつある。感情の波に溺れることなく生きていくこそが新しい「賢い」だと言えよう。
時代が変われば、まるで大きな古い時計の振り子のように、また論理性と物質の文化に戻っていくかもしれない。

どの道、「頭の良さ」は揺れ動く。

頭の悪い人は、果たして本当にいるのだろうか。

私は、いるとは思わない。