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ビジネスの未来と私たちの仕事と役割、人間の条件についての覚書

hello, here tsujihara.

年末の時間は山口周さんの「ビジネスの未来」を読んで打ちのめされていた。私が感じてきたモヤモヤが美しく言語化され、これからを示す一つのコンパスとしてその針は鋭いものだったからだ。

本書からいくつかのトピックスをもらいながら、私なりにもう少し思考を深め、この美しいコンパスを血肉にしたいと思う。

私たちは飢えている

まさか。

この提示を受けて、きっと多くの人はそう思うだろう。しかしながら、私たちの社会は間違いなく飢えている。それは物質的な飢えではなく、精神的な飢えだ。文明的には間違いなく高度に発達し、便利で快適な世界が半径5メートルのうちにも準備されている。にも関わらず「精神的に飢えている」とはどういうことだろう?

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Database / World Economic Outlook Database
graph / garbagenews

上図は世界のGDP成長率を表すグラフで、私たちはこの図を持ち出しては、なにかと「日本がやばい」みたいな話をしてしまう。(※やばいよね、ということに異は唱えていません)こういうグラフ表現はテクニカルに「右肩上がりが正」という心理的扇動を行なっているようであるし、私たちはGPD以外にも事業活動において業績を示す際に私たちはこの形式のグラフを多く用いている。

しかしながら、このグラフは「成長のためのフォーマット」であることを理解したい。私たちはそのフォーマットを用いることによって「成長しなければならない」という呪いを自らかけているのかもしれない。

これは先日公開された大塚製薬のカロリーメイトのコンセプトムービーだ。この受験勉強や試験の風景は多くの大人に見覚えがあるだろうし、多くの人の心に響くものであると思う。間違いなく青春時代の努力とその時間は何者にも変えがたく尊いものであるが、ここまでの問いを提示された上でこの感動を素直に受け取るわけにはいかない。

私たちは教育によってか本能によってか「成長」すること、そのために「努力」することを美徳とする共通の価値観を持っているのではないか?

そしてその努力は理由を提示されぬまま、自己目的化してはいないか?

私たちは成長の先にどんな世界を実現しようとしているのかを今一度真剣に考える必要があるはずだ。

投資としての努力、あるいは成長

「成長したいんですよね」

この言葉は後進を育成する際によく耳にするもので、私たちは無条件にその言葉に好感を抱き安心する。しかしそれは意味に対し怠惰な姿勢なのかもしれないな、と思うようになっていた。

これは2020年4月に発令された緊急事態宣言後に、サイボウズがテレワークを呼びかけたPRコミュニケーションの一貫として作成された映像だ。新聞広告やCMなど様々なメディアでの訴求がされたが、そのキーメッセージは「がんばるな、ニッポン。」だった。

なぜ「頑張らないでいい」のかをここでは「緊急事態に当たられている方々の努力を無駄にしないため」「安全な職場環境を取り戻すため」とされているが、残念ながら今では少々意味が希薄であるように感じてしまう。

なぜならばコロナ禍が私たちに突きつけたのは「労働と感染(=生死)のトレードオフ」だし、「なぜ働くのか」「何のために働くのか」という恐ろしくヘビーな問いかけだったからだ。

その問いに対する答えのヒントは、本書の中で経済社会を脅迫する3つの主義として取り上げられている。

・「文明のために自然を犠牲にしても仕方ない」という文明主義
・「未来のためにいまを犠牲にしても仕方ない」という未来主義
・「成長のために人間性を犠牲にしても仕方ない」という成長主義

さらに山口さんはこの3つの主義からの脱却が必要であると提唱する。これについて強く共感しながら、手放しで賛同しきれない自分がいる。

なぜならば、能力を身につけるための成長・そのための努力は人生において必要であると思っているし、むしろ自分の人生においてそれらの時間は宝だったと感じているからだ。

だから今を犠牲に努力し成長する必要があるのか?リスクを追ってでも働く必要があるのか?

...この呪いは相当根深いものなのかもしれない。

これからのビジネスの役割

翻って、今度はビジネスの役割について考えてみたい。本書中にこれからの世界に求められるビジネスの役割として下記の2つが取り上げられている。

①社会的課題の解決 / ソーシャルイノベーションの実現
経済合理性限界曲線の外側にある未解決の問題を解く
②文化的価値の創出 / カルチュラルクリエーションの実践
高原社会を「生きるに値する社会」にするモノ・コトを生み出す

ソーシャルイノベーションにおける経済合理性曲線についてはまた別の機会に触れたいが、1つのビジネスにおいて①②の両者が存在していてもいいし、別モノでもいい。ソーシャルイノベーションについて触れるとすれば、例えばすでにビジネス公用語になった感のあるSDGsは、一般企業において社会課題解決を推進するために簡便で使いやすいソフトウェアのようなものだといえる。これらを無視した事業推進は遠からず市場から排除されるだろう。

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では②のカルチュラルクリエーションについてはどうだろうか?文化的価値の創出・高原社会を「生きるに値する社会」にするモノ・コトを生み出すとは一体どのようなものだろうか?

意味を授けるアート

「人が生きるとは、どういうことですか?」

生物学的に答えるとすれば「死ぬため」であるかもしれないし、経済学的には「循環のため」であるかもしれない。その答えは立脚する学問や立場により様々である。

例えば私が個人的にその問いに答えるならば、この作品を挙げる。

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Yoko Ono. Apple. 1966 

作品の詳しくはぜひ調べて知って欲しいのでここでは触れないが、この作品は間違いなく「人はいかに贈与され、いかに生き、いかに死ぬべし」という世界の答えを一つの形として体現している。

文化的価値の創出に欠かせないのは「意味の発明」であるし、活動や行為自体を有意義・有意味にすることでしか「生きるに値する社会」の実現はなされない。ここでの主張は「アートを学ぶべき」というものではないが、アートが一つの文化体系として歴史的に意味を発明し続けてきたことは確かだ。

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当時スタートトゥデイ(現zozo)の社長であった前澤友作さんが123億円でバスキアの作品を落札したことが話題になり「なぜその価格でバスキアを」と様々な批判があがったが、これはアートが持つ強烈な意味でしか答えられないと個人的に考えている。

「彼がその価格でバスキアを評価し、欲したから」

もちろん作品や作家のバックグラウンドにも複雑な意味や価値があるが、市場的にはそう言わざるをえない。その価値はたとえば神の見えざる手によってスーパーマーケットで鶏卵の価格が調整されるような相対的な値付ではなく、作品を購入した前澤さんの絶対的な価値判断でしかない。意味がこのような強烈な力を持つことがあることを私たちは理解しなければならない。

しかしながらそういった「意味」はアートのような遠い世界だけのものではない。私たちにもっとも身近で、私たちの労働による世界への奉仕や貢献を意味づけ価値化するものがある。それは企業が掲げるパーパスやミッション、ビジョンだ。

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このパーパスやそれに続くミッション・ビジョンが指し示すものが「生きるに値する社会」でなければならないし、ビジネス・イズ・アートなんて事も言われるが、多くの人を事業に巻き込み駆動させる、まさにこの「パーパス」や「ミッション」「ビジョン」の発明はアート以外の何者でもないだろう。世界に絶対的な意味を見出し、授けるのがその役割である。

システムを編むデザイン

2020年に発表されたプロトタイピングツールを提供しているinvisionが、これからのデザインに求められる役割をいくつかのサーベイとともに発表したレポートがある。The New Design Frontier

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ビジネスにデザインを活用するためには全部で5段階のレベルがあり、Level5がもっとも高次であり組織化できている企業はたったの5%しかない、というリサーチである。ここで示されるlevel5とは「ビジョナリー」として時代や未来を歩みを揃え、前に進んでいくのがビジョンデザイナーの役割だ。簡単な意訳もつけておく。

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彼らにとってデザインとはビジネスを意味する。これらの企業にとって他企業と一線を画すのは、デザインの事業戦略への関与についてです。彼らのkeyとなる活動は、トレンドトラックと先見性(未来視)、プロダクトのマーケットfitテスト、ビジョンアーティファクト(理想を具現化する能力、みたいな感じかな)、領域横断戦略。keyとなる利点は、プロダクトユーザビリティ、顧客満足、成長を伴う収益、プロジェクト特化の指標、目標達成とコンバージョン思考、コスト削減(節約)、市場投入までの時間、新規市場参入、従業員生産性、ブランドエクイティ、ブランドパテント、株価。

生み出された意味や実現すべき理想的な社会のために、ロジックを整備し、仕組みやシステムを編んでいく。それこそがビジョナリーデザイナーの役割であり、存在理由である。

近年注目される「サーキュラー・エコノミー」という循環型モデルを経営に取り入れる動きがある。参考と図の引用

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事業をリニアに拡大するのではなく、事業の中で生み出されるゴミや余剰をさらに循環させ、エコシステムとして事業を拡大していくという考え方だ。

これは何も真新しい概念ではなく、これまで語られてきた「特殊解としてのビジネスデザイン=ストーリー」や「システムシンキング」と類似の概念である。そこに環境や技術から派生する経済圏を構築しながら社会課題の解決とともに拡張することを目指すのがサーキュラー・エコノミーである。

ビジョナリーデザイナーはこのような時代の変化による「アジェンダチェンジ」「ロジックアップデート」を捉えながら、ビジネスにおける全体最適システムを編んでいく。見出された意味の実現と、人間の最大幸福に貢献するために。それこそがデザインの役目であると、私は考えている。

「生きるに値する世界」をつくるために

最後に、本書でもっとも感銘を受けた一説を引用しておきたい。

人間であるということは、まさに責任を持つことだ。おのれに関わりのないと思われていたあらゆる悲惨さをまえにして、恥を知るということだ。仲間がもたらした勝利を誇らしく思うことだ。おのれの石を据えながら、世界の建設に奉仕していると感じることだ。

アントワーク・ド・サン=テグジュペリ「人間の大地」

なぜ成長するのか?なぜ努力するのか?その答えは自身が石を据えるための力を得、よりよい世界の建設に奉仕するためだ。なぜならば、現在の世界のアンバランスさに心を痛め、見知らぬだれかの非人道的な行いに恥を感じるからだ。これは自分以外の誰かの責任ではなく、私たち全員の責任だ。責任は果たさねばならない。

しかしその「理想的な世界」に意味を生み出し実現のための活動に尽力することが幸せだとせねば、その意味を信じともに努力し続けらる仲間がいねば、精神的な飢えがきっと弱い心を蝕んでしまうんだろうと思う。「一人ぼっちで戦わない」というのは強力な戦術であるし、そのための意味の授与とシステム編成にアートとデザインが活用されるべきというのが私が持ち続けている信念でもある。

そういえばILY,のMission「Design, for good days.」はたまに抽象度が高いよねと揶揄されることもあるけど、これはこれで最高のアートとだ思ってる。しかしながら、周りの人を幸せにするには、ここに最高のデザインを付与していかなければならない。

そういう事を考えながら一人で年を越していた辻原でした。

Thank you, I love you.

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