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メンズメイクと性認識、変わってゆく「わたし」と「あなた」のために

hello, here tsujihara.

先日、知人の紹介で会った男子大学生に「おっ」と気付かされたことがあった。そこからモヤモヤと考えたことをつらつら書いてみたいと思う。

モヤモヤ考えるきっかけになったのは、彼がいわゆる「メンズメイク」をしていたからだ。普段化粧をする方なら良くわかるだろうが、スキンケアとメーキャップは違う。彼がしていたのはメーキャップ。ファンデーションで肌を整え、切れ長の一重の瞼に紫とブラウンのアイシャドウを重ね、唇には自然な赤みを落とすリップを塗っていた。

私は思わず「メイク似合いますね」と言おうとして、すんでのところでその言葉を飲み込んだ。そんな風に褒めていいんだっけ?と思い直したからだ。だって、お化粧をした女性を「綺麗ですね」と褒めても「メイク似合いますね」なんていう言葉はかけない。それは褒め言葉ではないからだ。

彼に何と伝えればよかったんだろう、と数日経った今もまだ考えている。

性認識について

最近寝ながらいろんなyoutubeを見ている。こういうランキングを片手に、いろんな人がいて面白いなあとか、この企画や編集は上手だなあとか。

その中にたまに一人称が「ぼく」の女性がいる。彼女らはいわゆる「ぼくっ子」というジャンルに属するものであり、有名人では元でんぱ組.incの最上もがさんがそれにあたるかと思う。彼女らは「私」という女性的一人称ではなく「ぼく」を用いることで中性的な印象を与えている。

それと同じか、それ以上の確率で一人称に自身の名前を用いる人がいる。これは男女問わずだが、女性が多い印象ではある。有名なyoutuberではエミリンチャンネルのエミリンさんがそれにあたる。(彼女は「私」という時もあるし、今は炎上中のようだけど)youtubeというメディアの性質や認知促進の目的もあるだろうが、この人は「彼女/彼自身という人」なのだと理解させられる。その時「性認識」は「個性認識」にすり替えられている。

「自分であること」は性から逃れる手段の一つなのかもしれないなあ、なんて夜な夜な様々なyoutuberを眺めながら考えている。

社会参画機会とジェンダーフリー

昨年2020年11月に発表された世界の女性管理職比率の国別ランキングにおいて、日本が165位にマークされたことが話題になった。イチ先進国として重大な問題であると多くのメディアで取り挙げられ「女性の社会進出支援を」と叫ばれたが、一社会人として勘違いしたくないのはこの問題の本質が「女性が活躍する機会が少ないこと」ではなく、「男女間の社会的役割や責任が均等でないこと」であるということだ。

たとえば今では揶揄されるように使われる「女子力」といった家事能力に長けた女性を形容する表現であったり、「レディファースト」のように男性が女性を庇護しエスコートする行動であったり。私たちは文化的価値観としてそういうものを沢山持っているし、そしてそれを「なんとなく良いもの」「常識やマナーのようなもの」として疑問すら持たないことだってある。

来客時にお茶を出すのは誰の役目?経理や事務作業は?

デートでお金を払うのは?料理をするのは?洗濯をするのは?お皿を洗うのは?壊れた戸棚を直すのは?子供を産むのは?見守り育てるのは?その役割が性を含めた生まれ持った身体機能によるものなのか、個人差のある発達の差異によるものなのか。

ジェンダーギャップを解消する、というのは女性役員の数を増やすことじゃない。目の前の「あなた」に真摯に向き合うことなんだろうと思う。

「わたし」に不要なもの、必要なもの

先日、女優でアナウンサーの田中みなみさんが下着メーカー・ピーチジョンの新たなミューズに就任したインタビュー記事をふと目にした。彼女は「これまで胸がコンプレックスで」と言っていた。

また別の日、タレントの朝日奈央さんが顔のホクロを除去したというニュースを目にした。「チャームポイントと言われることもあるけど、自分的にはずっとコンプレックスだった」と、そう発信している。

両者とも一見チャームポイントのようだけど、彼女ら自身の「わたし」には不要で、むしろ「わたし」という個性表現を邪魔するものだったのかもしれない。

一方任天堂のゲームソフト「どうぶつの森」で、ジレット ヴィーナスが「スキンインクルーシブライン」という肌用デザインを提供したことが話題になった。(詳細はこちら

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ニキビやそばかす、セルライト、腕の毛、傷痕、シワ、アトピー、手術痕などの肌のタイプがキャラクターによって表現できる。これは誰かの「わたし」にとって必要で自己表現において大切なものなんだ。

あなたの特徴ひとつとって、長所か短所かなんて誰にも規程しえない。あなたはあなたで、わたしはわたし。みんなちがって、みんないい。

たしかにそれは希望のようである。

あなたは「あなた」、わたしは「わたし」

昨年公開された整髪ブランド・LUXのSocial Damage Care Project「採用においてあなたを<性別>から解放する」がコンセプトの映像だ。主語の男女が判別できないまま自己紹介や能力アピールがされ、その後「男か女かなんて、カンケーある?」と問いかけてくる。

たしかに言われる通り、男か女かなんてカンケーない。「あなた」のことをきちんと知ることができるのなら。

「あなた」を、ちゃんと知りたいのに

多様性の尊重とか、インクルーシブとか、ジェンダーレスとか。いろんな希望がキラキラと提示される中で、正直私は個人的に寂しさを感じている。

先ほど挙げたように、あなたが「あなたである」ための価値観は、私のものと全く違うものであるはずだ。しかしその価値観とは性別のように一瞥して判断できるような単純なものではなく、もっと入り組んで複雑なものだろう。

それを分かち合うのは、きっと対話以外にない。しかし私たちは「わたし」をきちんと伝え合う言葉を持っているだろうか?それを補う時間や、余白を持ち合っているだろうか?

そういうことを思いながら、表現だけが上ずっているように見えて、時代だけが進行しているように思えて、勝手に寂しくなった話をつらつらと書いてみました。とはいえ、このモヤモヤはどこにも漂着しなくて構わないと思ってる。

私は彼に「綺麗ですね」と率直に言えたらよかったし、それで彼に幸せに笑ってもらえたらよかった。きっと無駄に考えすぎたんだろう。

また会えたら、ちゃんと伝えられますように。

thank you, I love you.


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